第56期 #9
その男は30歳を節目に結婚する。彼の人生設計にはそう書いてあるからだ。相手は幼馴染と決めた。幼馴染はおとなしく控えめで、容姿もまた然り。要は地味でつまらないタイプではあるが、結婚とは生活である。生活とはそういうものだと男は思っていた。実は幼馴染が密かにこの男へ好意を抱いていたので、難なく男は結婚することができた。無論男は、その好意の存在を知っていたのだが。
穏やかな二人の生活が始まる。それは凪いだ太平洋にひっそりと浮かんだ小さな船のようであった。船の周囲には美しい海がある。美しい海しかない。1年も経つ頃、男は気付くのだ。「穏やかな生活」を望むには自分が少し若すぎるということを。
男は職場で企画プロジェクトのリーダーを務めることになった。大方は彼の意見に右へ倣えのチームであったが、どこかしら案件の穴を見つけては鋭く切り込む人物がいた。ビーズをちりばめた爪で不機嫌に机を鳴らす。大きな瞳で彼を睨んだと思えば、会議が終わるとコーヒーを淹れてくれたりする。面白い女だ。
男がその女と深く関わるようになるまで、さほど時間はかからなかった。「休日出勤」や「残業」が目立つようになっても、妻は変わらず笑顔で男を送り出した。愚鈍であるということは幸せなことだ。男はただ青いだけの空を見上げてそう呟く。
ある平日の午後、外回りから帰社する為に男は有楽町の駅へ向かっていた。西武付近で妻を見つける。今日は外出する予定だったろうか?膝丈のトレンチコートのベルトをリボン結びのようにして、裾をひらめかせ颯爽と歩く妻は、彼の把握している人物とは少し違って見えた。表情は明るく華やいでいる。黒い髪がつやつやと肩にふれて揺れる。
どこへ行くのだろうか?男の頭に漫然と浮かんだ疑問はやがて疑念となって頭をもたげた。まさか。男か?
隠れるように妻の後を追う。妻は銀座三越へ入っていく。まっすぐ紳士服売り場へ。見るからに高級なネクタイの前で立ち止まる。店員が妻に話しかける。二人の会話が耳に入った時、男は虚を衝かれて呆然とする。
「主人の誕生日なんです」
妻は頬を染めて、笑みを浮かべた。
「ねえ、何を考えているの?」
女が男の耳元で囁く。
「ネクタイのこと」
「ネクタイ!斬新ね。ソレで今日はどんな楽しいコトをしてくれるのかしら?」
女の赤いマニキュアが男の唇にふれ、首筋をなぞる。
「長い夜になりそうね」
長い夜になりそうだ。