第56期 #28

わたしはわたし

 小説を読み、小説を書いてきて、「私」とは一体何者だろうか、ということに時折悩まされてきた。未だ勉強不足であり、あるいは過去に論じ尽くされたことなのではないか、と思いもするが、無知や誤謬をみだりに怖れず「私」について今思うところを書き記してみたいと思う。

 オーソドックスな推理小説の場合は、「私」は「ワトソン役」、つまり「私」=「記述者」という態を取っており、私小説の場合は、「作者」=「記述者」という態を取っているわけで、このイコールは厳密なものではないけれど、一応納得がいく。その他にも、古くは『ドン・キホーテ』や、あるいはウンベルト・エーコの諸作のように、あくまでもこれは発見された手記を編纂したものであって、私(この場合は作者)が書いた「小説」ではない、という態を取るものも多い。
 私が悩まされるのは、そういった「記述者」という態を取らない「私」だ。例えばフィリップ・マーロウの場合がそうで、マーロウの物語は「私」という一人称で語れているけれど、この「私」は「作者」のレイモンド・チャンドラーとイコールではないし、かといってマーロウ自身が自らの物語を書き綴っているという訳ではないから、マーロウでもない。マーロウの言動を逐一読者に報告してくれるが、決してマーロウ自身ではないこの「私」とは一体何者なのだろうか。
 背後霊のような存在や、「私」が故意に嘘をついていたりすることを認めるなら話が違ってくるが、マーロウが「記述者」ではない以上、「私」は作中世界の住人ではないし、作者自身でもないのだから現実にも存在せず、「私」はどこにも存在しないことになってしまって、「私」の正体は判然としない。
 しかし、その役割だけははっきりしている。「私」は物語の「語り手」として、現実世界にいる私たち読者を、虚構の作中世界へと導く役目を負っているのだ。「私」を経て我々は物語に接することが出来るわけで、逆にいうと、読まれることによってのみ「私」は存在出来る。読者が読むことを止めてしまえば、虚構の中にも、現実の中にも居場所を持たない「私」は、たちどころに消えてしまうわけで、読書という行為の中にしか「私」はいられない。
 それはまるで彼岸と此岸のどちらに属することもない三途の川の船頭のようじゃないか。
 そうか、つまり「私」は「渡し」だったのだな、と「私」はこの駄洒落に気をよくして思わずニヤリと笑ってしまった。



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