第56期 #29

放浪

下見にきた部屋の郵便受けにすでにわたしの名前が書かれているのはどういうことだろう、とぼんやり眺める。大家が気を利かせてくれたにしては随分古びているように思うが、これが先の住人の名だろうか。
繁華街からほど近い立地にして破格の家賃の理由は、建物自体が相当古いからというのもさることながら、以前ここに住んでいた人間が変わった亡くなり方をしたという噂にある。綺麗に剥がされていない表札のラベルから察するに、この部屋ひとつが埋まらないからといって家主は困らないのだろう。不動産屋を介して電話をしたときも、よほどの変わり者だと思われたらしい。確かにわたしは物好きではある。

「あんたは流転の相をもってる。これまでも一箇所に落ち着けないで、色んな土地を転々としてたろう」
自称元占い師にこう言われたのは確かふたつ隣の駅前のうらぶれた居酒屋だった。薄暗い電灯に照らされた濃い化粧ばかりが今も目に浮かぶ。
「だけどこの次であんたの移動はおしまい」
はあ。わたしの気のない返事にむきになったのか、尋ねてもないのにさらに言葉を重ねてきた。
「だからといってあんたの放浪癖が止むわけじゃないよ。この先もそれはずっと消えないね」

気配に振り向くと、いつの間にか大家が立っていた。
ネームプレートのことにふれると、誰の悪戯かは分からないが何度消してもまた落書きされているのだと愚痴をこぼされた。それからふと不思議な顔をして、でもあなたの名前とは似通ったところなんてありませんよ、と言った。
ふいに先の回想が、はるか昔の出来事だったことに思い当たる。
ここに決めます、と伝えると懐かしい感触のドアノブに手をかけた。
今生も同じ運命を引きずってしまったか。



Copyright © 2007 美土里 / 編集: 短編