第56期 #19

姉の話

 夜に目が覚めたら泣いていた。かけ布団が重い。寝返りをうつ。枕に顔をこすりつけるとシャンプーの香りがした。五年前に姉が自殺した理由が分かった。

 ぼくの人生は散々だった。十二歳の時に母が交通事故で、その一年後に父が急性アルコール中毒で死んだ。そして引き取られた先の叔父が働いていなかった。母の兄で、祖父の遺産で遊び暮らす、悪い人間だった。
 マンションの八階で生活した。学校から戻ると叔父がいて、ぼくと姉に家事をすべてやらせる。叔父の奥さん――叔母は叔父が嫌で家にいなかった。ぼくらに遊ぶ暇はなかった。
 二歳上の姉は頭が良い。叔父が姉に言った。
「母親によく似ている」
「ありがとう」
 姉は造り物と分かる硬い笑顔で答え、叔父に対する嫌悪を示す。保護者である以上、ぼくらは表立って叔父への敵意を表せなかった。だから姉はこうしてそれを表現する。
 一度だけ姉と叔父が口論していたことがある。ぼくが修学旅行から帰ってきたときのことだ。玄関に入ると大きな声が聞こえた。姉はぼくの帰宅を機に家を飛びでた。ぼくは追った。
 近所の公園まで走り、そこで姉は止まった。姉は言った。
「あいつ、あたしに嫌らしいことをしやがった」
 叔父が鉛筆の先端で姉の股間をいじったのだという。
「警察に行こう」
 ぼくがそう言うと姉は笑った。ぼくへの軽蔑だった。姉は誰かを頼らなければならない人間を憎んでいた。傲慢だった。祖父の金を遣う叔父を嘲るようにぼくを笑った。そしてこれが姉が死んだ理由なのだろうと思う。
 ぼくは姉が笑うのを見て怖くなった。見ていられなかった。顔は向き合わせていたが、瞳は姉の背後に広がる空を見つめていた。

 布団から抜け出、手を洗った。
 姉が自殺した場面を覚えている。
 ベランダで叔父が手すりに背中をもたせかけ喫煙し、姉はその横で洗濯物を干していた。秋の陽が差し、ぼくは二人を眺めていた。
 叔父が言った。
「俺には子どもがいないから、お前たちがきて良かった」
 いま思えば、素行はどうあれ叔父はぼくたちのことが好きだった。
「ありがとう」
 姉が答えた。そして次の瞬間、姉は叔父の膝裏に腕をさしこみ、手すりを支点に叔父の体を掬うようにして空に放った。
 姉はベランダから地上を覗きこんだ。ぼくの方を振り返った。開かれた目は絨毯を見ていた。ぼくを見てはいなかった。姉は歯を食いしばり、唇をこぶしで拭った。それから手すりによじのぼって跳んだ。



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