第55期 #17

例えば千字で永遠を

 もうどれくらいの間、落ち続けているのだろうか。

 もっと速く飛びたかった。景色の流れる様を見ることが気持ち良かった。街路樹が数えられなくなるくらい流れた。街灯が点滅して見えるかのように流れた。白い雲が勢いに形を歪めて流れた。そして、星々が光の尾を引いて流れた。速く、もっと速く。俺は速さを求めて、より高度なことに挑み続けた。
 スウィング・バイ。星の重力で加速するそれは、遠心力で勢いをつけるハンマー投げに比せば良いだろうか。ハンマー投げは、間違ったところで手を放せば間違った方向に飛んでいってしまう。スウィング・バイにも同じことが言えるが、これにはもうひとつの危険がある。加速を求めて星に接近しすぎると、星の重力に捕らわれて衝突してしまうのである。究極の重力で、究極の加速を。今回俺が挑んだのは、ブラック・ホールによるスウィング・バイだった。

 重力を感じてこれまでにない加速が始まったとき、俺の心はこれまでにないくらいに沸き立ち浮き立った。だが数瞬後、それは驚愕に変わった。姿勢が僅かにずれ、ギリギリで重力に捕らわれないはずだった軌道が崩れて、ブラック・ホールに向いてしまったのである。加速に浮かれていた数瞬で、すでに離脱は不可能になっていた。諦める以外、為す術はなかった。
 これまでにない加速、これまでにない速さ。せめてそれを感じて最期にしよう。旋回しているのだろうか、一晩中カメラを露光させて星空を撮影した写真のような、そんな光が見えた。しかしそれもほんの少しの間だけで、ついには何も見えなくなった。光さえ脱出できないブラック・ホール。そこは一点の凝集された特異点であって、同時に無限の空間である。前方には、逆方向に向かうもののない虚無が広がっているだけである。流れるもののないそこで、速さを感じることはできない。
 俺は落ちる。落ち続ける。高速で移動する系は、それを高速とする系から見ると、時間が遅く流れると言う。息子に冗談で、お前より若くなって帰ってくる、と言ったことがあったが、もしかするともう息子の子供の孫の曾孫が俺より年上になっているかもしれない。タイムカプセル、くすっと笑っても、確かめる方法はない。光速に届いたとき、俺は永遠を生きるのか、ただ落ち続けて生きるのか。

 腹の虫が鳴った。結局俺はただ俺の時間を生きて、死ぬことしかできないのだ。どこまでも、ただブラック・ホールを落ち続けて。



Copyright © 2007 黒田皐月 / 編集: 短編