第55期 #18

阪急電車に乗って

「黒きこと罪の如く熱きこと地獄の如く甘きこと恋の如し。そんなトルコ珈琲、貴女に捧げたい!」

宴会の人込みを掻き分けてきた一人の男は吉田さんの隣に座りこむなり叫んだ。(うざい。大学の飲み会なんて嫌)と思った吉田さんである。が、言ってる内容が気にいった。かなり酔いが回っているようではあるけれど酔っぱらって暗誦する男なんて久しぶりだ。吉田さんは古臭い男が好きであった。

「それなによ」
「呪文だ、珈琲ブルースだ」
「ブルース?」
「まあ飲んでみなよ」

吉田さんは男の差し出した珈琲を飲んだ。インスタントそのままだ。

「ああ罪な味だわ。ぬるくて苦いけど」
「そうか。それも人生だよ」
「人生よね」
「人生と、君に乾杯」
「乾杯」
「名前、なんだっけ。俺は木村だ」
「吉田」
「じゃあ吉田さんの美しい踵に!」
「カカト?」
「ああ。君の踵はグッとくる」

木村はその場所で眠った。(名前は知らないのにカカトは見てるんだ)木村を放って吉田さんは帰った。乗った電車に偶然、友人の古田智子を見つけた。早速吉田さんは義理で出た宴会にも面白いことがある、哲学的呪文を唱えカカトが好きな男がいる、と話した。

「谷崎の小説みたいじゃない。面白いわね」と古田さんはクックと笑った。二人は本を通じて知り合った書友である。古田さんはまもなく獅子文六「青春金色譜」を、吉田さんは広津和郎「動物小品集」を取り出して読み始めたがこれも互いに交換した本だ。

「広津和郎、ぞくぞくするよねー。馬は恩も仇もずっと覚えているから子馬のときから丹念に愛撫してやらなければいけない、とかさ」

二人は馴染みのブックバーに着きラム入り紅茶を飲みながら話した。吉田さんは広津和郎の興奮を古田さんに語らずにいられず、古田さんは同感、同感と頷いている。顔がほんのりと赤くなったころ、解散とした。



木村が叫んだ出会いから数年。吉田さんは昼間の阪急電車に揺られながら振り返っていた。大抵友達になった男とは寝たものだが木村とは友人のままで、いつしか連絡を取らなくなった。(あの人私より足が好きなんやもんな)

神崎川で降りると携帯電話が鳴った。

「玲ちゃん、すまんなー、わしや。あんなーすまんけど、スーパーでチーズとな、パパなんとかこうてきてくれへん?」

電話はすぐに切れて、吉田さんはスーパーでパプリカを買った。この男と結婚することになるんやろうなあ、と思いながら(大阪にずっとおるんもええか)とにっこりした。



Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編