第55期 #15

おしりこ

 ものを食う女の後ろ姿は恐ろしい。
 高校の同窓の男が死んで、風邪の身体を通夜の場まで運んだのはいいが、帰りの乗換えが億劫になった、今晩は泊めてください、とはつ美から連絡があったのは1時間前のことだ。今は座卓の上に新聞と駅で買ったという折詰の鮨を広げている。
 読むことと食うことの半々なのが、かえって無心さを際立たせて、こちらからは見えぬ章魚だの鮪だのの好き嫌いが頭の傾きに現れるのも知らぬ気である。黒々とした髪が二股に分かれて肩の前に流れ、その間に切り抜かれたようなうなじが青く光っている。軽く屈んだ姿勢の、横座りの尻が大きく張り出して、こんなに腰周りの豊かな女だったかと今更に見返した。尻が話し出す。
 「通夜だの葬式だのは押しの強いところが困るのね。出物腫れ物ところ嫌わずだわ」
 見当を外したことを言うと思いながら、それではこの女にとっては、死も吹き出るものとしてあるのか、それこそ命そのものではないか、と疎むような誘われるような、荒い気を起こしかけて、男は壁の時計を見遣った。
 
 「言葉遊びをしましょう」
 肘枕の顔を戻すと、いつの間にか鮨を食い終わって、片付いた顔をこちらに向けている。この女のこういう調子には慣れていたので、どんな遊びだ、とまずは尋常に受けた。床をすべらせてよこした広告の裏には、鉛筆で小さく「おし○こ」と書いてある。
 「その○に字を、できるだけたくさん入れて」

おしるこ、おしんこ、おしっこ、と続けると、ちらと笑みが浮かんだ。それから、と促す女に、一語でなくていいかと念を押して、惜しむ子、惜しい子、惜しき子、と一息に繋げる。「それから」女の瞳はいよいよ澄む。息が走り、お白子、と言った先で極まって、
「おしりこ」
「おしりこ?」鳥のように首を傾げた。
「ほら、尻子玉を取られるとか言うだろう」 
苦し紛れの出まかせにそれこそ尻が抜けた気がして押し黙ると、名乗りの声の確かさで、寝ましょう、と言った。

 枕元の文庫に手を伸ばした女を置いて浴室に行き、立ったまま熱い湯を使う。布団の中で耳にした言葉を反芻する。あなたと、別れてもいい気がしてきました。
 不意に戸を押し開けて女が入ってきた。ついぞないことに驚いていると、背中に回り込み、腰から下を押し付けてくる。冷たい肌だ。何をなさっているかあててごらん、おしっこよ、と唄うように呟く。灯るような温かさが、腿から脹ら脛にかけて、ぼうと流れた。



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