第54期 #20
この世界から蜜柑が姿を消して、もう7年。当初の混乱も収まり、世間は蜜柑のない生活に順応しつつある。俺も慣れた。勿論それも、以前よりは、という意味でしかない。俺はまだ、あの橙色の果実のことを思い出すことがある。眠れない夜なんかに、時々だ。
「蜜柑って、どんな味だったかしら?」
隣の女がそう尋ねる。
「甘かったのさ」
「甘いんだ?」
「ああ、そして酸っぱかった」
「甘酸っぱいの?」
「いや、違う。甘くて、酸っぱいんだ」
そうだったかしら。彼女はそう呟いて、爪の手入れを再開する。その薄い、美しい爪に、あの原色の分厚い皮が挟まることはもう有り得ない。俺は蜜柑のことに思いを馳せる。
どうしたって、時は過ぎる。蜜柑があろうがなかろうが、俺は年をとり、彼女は妊娠して子供を生み、その子供は蜜柑を食べることなく、大人へと成長してゆくのだろう。もう誰も、蜜柑を食べ過ぎて手が黄色くなることを心配したりはしないのだろうし、セックスマシンガンズの「みかんのうた」も、その意味を失うのだろう。俺は愛媛県人のことを思った。彼らに比べれば、俺の絶望など、些細なことなのかもしれない。
半年ほど前、蜜柑が発見されたという報道があった。ある者は驚き、別の者は喜び、そして、多くの者は無関心だった。しかし発見されたのは蜜柑ではなく、八朔だった。ふざけた話だ。
俺は蜜柑のことを忘れたくないと思う。なぜならば、俺は蜜柑が好きだからだ。もう一度言う。
俺は、蜜柑が、好きだ
いつだって、蜜柑は傍にいてくれた。辛いことがあっても、炬燵に入って蜜柑を食べれば幸福な気持ちになれた。蜜柑は俺に、多くのビタミンCをくれた。俺から蜜柑に捧げられるものは何もない。せめて、この思いだけでも届けばいいと、俺は願う。
「どうしたの? 難しい顔をして?」
女が俺の腰に手を回す。
「消え去ってしまった物について、考えてた」
「やめましょう、そんなこと。私はここにいるんだから」
「……そうだな」
俺は女の細い肩に手を回し、引き寄せる。確かな重みを体に感じる。その感覚を楽しみながら、そっと唇を近づけて、甘いだけのキスをした。