第54期 #19

ボートはボート

 今日のような天気の良い休日にあの人は、家族でディズニーランドへ遊びに行ったり、上野公園でボートに乗ったりしているのだろう。
 ディズニーランドやボートは別れるジンクスがあるからと一度も行かない。もっともらしい理由をあの人は言ったつもりだろうが、そんな事、家族を思い出すからに決まっている。家族を捨てなければ、別れると何度口にしたろうか。今回の別れ話も、いつの間にかなし崩しに消えてなくなると、あの人は高を括っているに違いない。
  日曜の朝九時半に、茶の間のテレビの前で頬杖をつきながら、私はそんなことをだらだらと考えていた。
「おい、美和子、多摩川へ行かないか」
そばで新聞を読んでいた父が突然そう言った。

 土手の草はまだ枯れていて、歩くたびにかさかさ鳴った。ふきっさらしの風は思ったほど寒くなく、かすかな春の気配を感じる。
  私の前を黙々と父は歩く。話し掛けようにもきっかけがつかめず、私達はそれほど狭くもない土手の上を一列になって行進していた。
 父がやっと立ち止まって私を振り返った場所は、ボート乗り場だった。
「ボートに乗らないか」
きしむ船底を踏んで、腰が引けながらも恐る恐るボートに乗り込むと、父は軽い足取りで私の正面に座り、慣れた手つきでオールを手繰る。
「お父さんとこうしてボートに乗ったの、初めてだけど漕ぐの上手だね」
「そうか?ボートはたくさん乗ったからなあ」
「ふうん、誰と?お母さんと?」
「ふふん、いろんな人とだ。いろんな人と乗って、いろんな人が降りてそうしてお母さんと出会ったんだな」
「ふうん」
「うん、そうだ。そうなんだぞ、それだからなあ……」
父は一生懸命言葉を探していた。勘がいいわりに的外れなこの人は、私が失恋でもしたと思っているのだろう。私がよその家庭に忍び込み、すっかり奪い取ってしまおうとしているなんて思いもしないで。
「うわ!おとうさん!」
「おお!いきなり大声出すなよ、びっくりしたじゃないか」
「ねずみが浮いてるよ!」
猫ほどの大きなドブネズミの死骸が、ボートの横を流れていく。
「左旋回!左旋回!」
父は、オールをぐるぐる回す。
「やだ!お父さん、ボートが回っているだけだよ!」
私はむやみに声を張り上げる。
「お父さん!お父さんたら!」
「あれ!なんだ!この!」
ドブネズミの死骸は、やがて渦に巻かれて川底へ沈んでいく。
父がオールでたたく川面に、しぶきが上がってきらきら光る。



Copyright © 2007 長月夕子 / 編集: 短編