第54期 #18

嘘を吐いているのは誰だ?

 後味の悪い事件だった。

 嬰児誘拐。
 昼過ぎから降り出した霧雨。ショッピングセンターの入口で、母親が折り畳み傘に手間取っている僅か数分の間に、ベビーカーに乗せられていたはずの娘が消えた。まだ首も座らぬ2ヶ月の乳児だった。4時間後、父親の職場に身代金2億円を要求する電話が入った。
 状況から店頭で着ぐるみのアルバイトをしていた男――以前、被害者の父親の同僚だったことがあり、母親とも面識があった――が犯人だと断定されたが、事件発生から18時間後、県警に身柄を確保されたとき男の手元に娘はおらず、また共犯者の痕跡もなかった。誘拐の直後、娘をバラバラにして複数のゴミ集積場に捨てたと男は証言した。身代金が要求されたとき既に娘は殺されていたのだ。そして、犯人が逮捕された時点で遺体のすべてはゴミ焼却場の炉の中に消えていた。
「奥さんの取り乱し様なんて、気の毒すぎて見てられませんでしたよ」
 実際、新米刑事である川本にはショックの強い事件だった。何の躊躇いもなく乳児の身体を破壊できる人間がいるということがどうしても信じられない。
「近頃じゃこういう事件も珍しくない。慣れるしかないぞ」
 ベテランである山口の表情も固い。被害者は殺され、遺体さえ戻らない。考え得る限り最悪の結末だった。しかし――

「被害者が生きてる!?」
 男が証言を翻したのだ。警察を挑発するために殺害を仄めかしたが、実際には誘拐の直後、隣県の病院へ車を走らせ被害者を赤ちゃんポストに捨てたのだ、と。病院に照会すると、確かにその時刻に預けられた乳児を保護しているとのことだった。母親は狂喜した。署内に安堵が広がる。
「ポスト?」
「ああ、事情があって育てることの出来ない乳児の受け皿としてK県の病院が設置したものだ。賛否両論あるが、今回ばかりは被害者を救う役目を果たしたわけだな」
 誘拐事件の場合、逃げるにしろ隠れるにしろ被害者を連れたままでは犯人の行動は著しく制限される。だから、追い詰められた犯人は被害者を殺してしまうことも多いのだ。今回の事件では、匿名で安全に乳児を遺棄できる仕組みが犯人を身軽にするために上手く利用されてしまったのである。
「しかし、だ」
 山口は川本を会議室の隅に引き込んで、そっと耳打ちした。
「母親は娘が戻った喜びに涙を流して喜んでるんだがな。父親は首を傾げてるわけだ――これは我が子じゃない、と。さあ、嘘を吐いているのは誰だ?」



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