第48期 #27

またもやうんこの話

 先日、梅田の街を高みから眺める機会があって、この街をうんこまみれにした小説を書いたことを思い出したりした。あの話のなかの地下の公衆トイレというのは、紀伊国屋梅田本店から地下に入った阪急三番街のトイレのことで、そこで正体不明の巨大うんこを見たというのは本当の話なのだが、そこから先のことは当然作り話で、梅田の街がうんこまれになって流れていくということは実際にありはしなかった。それはもう当たり前過ぎるくらいに当たり前のことなのだけれど、この時見下ろした街に、うんこが流れ去ったあとの、一面白磁の野原と化した街が不意に重なって、その自ら幻視に驚くよりうっとりしてしまいそうになるほどだった。
 そもそも便器というものは日常のなかにあって、とびきりの美しさを持っているのではないか。おしっこの飛沫やらなんやらですっかり黄ばんだ便器を懸命にこすって綺麗にしたことがある人ならわかると思うが、便器というものは、日頃うんこやなにやらを好きなだけ垂れ流しているというのに、手入れを怠らないでいれば、いつまでも白く輝いているもので、その白磁の美しさは、「永遠」という言葉が思わず頭を過ぎるほどであり、あの柔らかな、ほとんど女性を思わせる優美な曲線と相まって、神聖ともいうべき空間を日常のなかに与えてくれている。小説のアイディアなるものはしばしば排便中に思い浮かぶし、もっとも集中して読書できるのもトイレのなかである。これは便器のあの柔和な美しさと無関係であるはずはなく、人の体で最も丸みを帯びている尻をすっぽり納めるように出来ているのにも、機能美を超越した神憑り的な何かを感じてしまう。
 マルセル・デュシャンが、便器に「泉」と名づけ、一箇の芸術品としたが、「泉」などと名づけるまでもなく、端から便器はそれ自体芸術であったのだし、なによりデュシャン最大の過ちは、大便器ではなくて小便器を持ってしたことである。うんこもおしっこも区分しない大便器こそ、便器のなかでもっとも美しい。デュシャンの便器におしっこをひっかけ、ハンマーで一撃した男がいたが、あの男はおしっこではなくうんここそ、そこにすべきだった。あるいはその男は、いざ実行の段になって、自らの下痢便うんこを恥じ、小便にしたとしたならば、もし、そうだとしたならば、あるいはその男は僕の魂の双生児であったかもしれない。

 うんこの話のはずが、便器の話になってしまった。



Copyright © 2006 曠野反次郎 / 編集: 短編