第43期 #19

ながめせしまに

 犬が死んだ。家族三人で可愛がっていたマルチーズだ。老衰だった。俺が居間でソファに座っていると、膝と膝の間にどうしても頭をつっこむ。家族の輪の中にいるのが好きだった。彼の尻尾はヌイグルミのほつれた縫目からはみでた綿だ。
 死ぬ一箇月前に穴がゆるみ、みっともなく家の至る所で粗相した。それは妻か娘が瞬く間に片づけた。
 しかしある夜、俺の靴の中にしてあった。購入したばかりので、途端に怒りが沸く。俺は犬の姿をさがした。
 風呂場の隅にうずくまっていたのを、一喝した。
「こら」
 犬は俺を見あげた。汚らしい目ヤニのたくさんついた瞳を潤ませている。犬は申し訳なさそうに、居場所を失くしていた。犬だったが、長い付き合いだから感情は読めた。たぶん、こう言っていた。
「気持ちはわかります。しかし自分の意思ではどうにもならないこともね。察して下さい」
 十年も愛玩した犬だったのに、迂闊だった。以来最期まで、犬は俺を見ると震えた。

 不倫したのが妻にばれた。
「誰と?」
「大学の同窓と」
「四〇のくせに、はしたない」
「すまない」
 妻は泣きながら俺を打ち、ひどく責めた。幾日も喋らない日が続く。妻とも大学で出会った。浮気相手とは、妻も知り合いだった。話し合いで離婚はしないことになったが、それは娘がいたからに過ぎない。
 金で買える侘びになら、親の遺産も遣った。白々しく響くと知りつつ、何度も謝った。心から後悔していた。
 五年が過ぎれば、妻と砕けた会話も生まれる。だが表面的だった。夜が来る。妻の誕生日だった。妻の誕生石を贈った。柘榴のように、赤い――。
 寝室に妻と二人になった。言った。
「おめでとう」
 妻はしずんだ顔で微笑した。妻の容色は疲れている。手を握ろうとするといやがった。もう何年も、世界からは色彩が奪われていた。俺が奪った。妻は無言で鎧っていた。この反応は知っている。どうにもならない。こう言っているのだ。
「ねえ、察して」

 酔った晩がある。一人で台所で、酒を飲んでいた。味の無い酒だった。娘が会社から帰宅した。言った。
「浮気したんだ」
「知ってる」
 妻から聞かされていたらしい。
 俺と妻が離婚しなければ、娘の生活に経済的変化は起きない。この点を頼みに娘は傍観者だった。娘は額を丸出しにしている。若く、美しい。これを見るのは、親である俺の楽しみに違いなかった。娘は、俺を慰める気配をすこしも見せなかった。片鱗も見せなかった。



Copyright © 2006 qbc / 編集: 短編