第43期 #20

南風

 唇が薄かったら俺の好みなんだけど。
 初恋の男からそう言われて、万里は人前で唇を口の中に隠してチャックするようになった。学校でも職場でもそれを指摘した人はいないけれど、万里は数年たった今も、早口で話すとき以外にチャックを開くことはない。誰かを好きだという感情もそのときからわからなくなってしまって、誰とも付き合ったこともない。仕事一筋、というわけでもなかったがお金は貯まって、ある日会社をやめて沖縄に出かけることにした。
 那覇でのモノレール。万里の隣の席に座った男は祐介といって、もちろんこのとき二人は知り合いではなかったが、二人ともリモアのスーツケースを持っていて、お互い目があった。祐介の眉毛がぴくぴくっと震えたのを万里は見逃さなかった。
 祐介の眉毛がひきつるようになったのは祐介が旅行代理店の職について3年目のことで、もちろん祐介本人は自分の顔の異変に気がついた。人前で何か考えごとをすると祐介の眉は動きはじめ、不況でイライラしていた上司から「お前の眉は夏の毛虫か」と言われて以来、ますます悪化して数ヶ月たつ。自主退職願いをだして沖縄へ飛ぶことにしたのだった。
 なぜ沖縄か? 二人は知り合ってのち、この点について話し合うことになる。どうしてだろ沖縄って何かあるのよね、と万里。青い海がみたかった、と祐介。
 那覇のモノレールに時間を戻せば、彼らは一瞬お互いをみつめあって、祐介も万里が唇を隠していることにすぐ気がついた。

「リモアの」と祐介。
「スーツケース」と万里。
「あ、同時」
「だね」

 そのとき電車は停車して、駅から数人の高校生が乗り込んできたが、どうやら彼らは聾唖学校の生徒らしく、みんな一斉に手話で会話をはじめ、祐介も万里も呆然とみとれてしまった。

「手話だ」
「なんだか楽しそう」
「言葉なんかいらねーって思うよ」

 修学旅行だったのか、彼らは車窓に飛び込む景色が珍しいのか、さかんに手を叩いて窓に顔をべったりくっつけて興奮している。

「旅行中?」
「まあね」
「俺も」
「そうなの」
「どこにいくの?」
「決まってない」
「俺も」

 祐介の眉は相変わらず動いていたし、万里のチャックは閉じたままだったけど、二人の距離は確実に近づいていて、万里の方からお茶に誘った。それから仕事を活かした祐介が万里を首里城に案内していつのまにか恋人同士のように手をつなぎ、万里は勇気をだして唇を祐介につきだして、二人はキスをした。


Copyright © 2006 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編