第41期 #24

ガラスのうた

娘がガラスを割りまくっている、と夜中に警察から電話があって行ってみれば娘は私をみることもなく、冬のコンクリートのように固まって座っている。

「さっきから一言も喋りませんのや」

警部が私にそう言って、私はうなづいてみたものの私もまた何も言えない。椅子に座って娘の掌に小さな切り傷をみつけた。時間をかけてゆっくりと血が滲み出ている。

「血、でてるよ」

娘は無言のまま袖でごしごし拭き取ったものの、締めきってない蛇口と同じで傷口から血は止まらない。

警部は私の父親としての貫禄のなさに呆れているようで、私を無視して動機を訊きだそうとしている。

「また連絡しますから、今日のところはこれでいいです」

警部は私を見ることなく言って、私は娘を連れて警察を出た。そのころにはすっかり夜も明けていて、バス停で始発を待つことにした。ガラスの十字架が落ちていて、私はそれを拾いあげて陽にかざしてみる。

「あれか、やっぱりピアノか」

娘は黙っているものの否定しない。妻の夢は「娘をピアニストにする」ことで、事実娘は3歳から妻の期待に見事に応え続けた。その妻が亡くなって娘は自分が本当にピアノが好きなのか迷っている、口にしないがわかる。

バスがきて、乗り込もうとする娘の腕をとると娘は不審な顔をした。私はタクシーを呼びとめ、近くの駅に向い、そのまま特急列車に乗り込んだ。娘とは一言も口を訊かなかったが、見えない手錠がかかってるかのように私についてきて、私たちは大阪についた。随分歩いて「名曲喫茶」と看板のある店に入った。

バッハのクリスマス・オラトリオが静かに流れている店は店主一人で、珈琲を注文すると「ああ、久しぶりだね、洋子さんは元気かい」とそっけなく尋ねてきた。「亡くなったよ、それでこっちは娘のかおり」

ほどなくして音楽はモーツァルトのトルコ行進曲に変わった。「演奏はバックハウス」娘が呟く。「初めて話すけど、この店で母さんがこの曲を弾いて、それで父さんは母さんに惚れたんだ」

娘はしばらくしてから「ごめんなさい」と言った。店主が珈琲を持ってきて曲はシューベルトのピアノ即興曲に変わった。「この曲いいね」と娘が言った。

ぼんやりと聴きながら「私もガラスを割りたい」と思った。ちょうど年末のこんな日に私は荒れていて迷い込んだこの店で洋子の初めての演奏会をぶち壊したのだ。まさか娘と一緒にガラスを割り始めたなんて洋子にいえない。私はもう父親なのだ。




Copyright © 2005 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編