第40期 #22
父がネクタイを選んでいる。僕はそれを横で見ている。
二十八にもなって、いや、たとえどんな年齢であろうと、父のネクタイ探しに付き合うだなんてそう愉快なものではない。母が出かけているからと誘われて、はっきりいって面倒なのだけれど、予定も無いのにそれを無下に断るほど薄情な息子でもない。せっかく里帰りをしているのだ。
紺の地に白い細かな格子の入った、どこにでもあるようなネクタイを父は手に取る。そんなネクタイもっと安い店で買えばいいのに、と僕は思う。
すぐ近くにある山吹色のネクタイが目に付いた。ちょっと派手すぎるだろうか。けど決しておかしいということはない。似合わなければ僕がつけたっていい。
「どうね、これ」
という父の声に振り返る。父は鏡に向かいネクタイをあわせている。体を曲げ、鏡に映る父の顔を見たとき、ドキリとした。
そこに映っていたのは、ひとりの、どこにだっている、六十を過ぎたおじさんだった。それが父なのだということは分かる。僕はそれを知っている。けれど、まるで実感が湧かなかった。
胸が詰まった。僕はあいまいにうなずくことしかできなかった。どこにでもあるような紺のネクタイをあわせている、皺の多い、白髪混じりの、肌に張りのないおじさんはまぎれもなく僕の父で、けれどそれは、どこかの見知らぬ他人のように思えた。
僕は父の顔を本当に見てきたのだろうか。よく分かっているつもりで、まともに見ようとしなかったのではないか。
父は確実に年をとっているのだ。僕がそれに気付かなかっただけだ。いくら自分の父であろうと、父である前に一人の男で、そのへんのおじさんとなんら変わりはない。そんなのは当たり前だけど、僕にとって父は父でしかなかった。
「あんたもなんか選ばんね。買ってやるよ」
どこにでもあるようなネクタイを手にした父が言う。どこにでもいるおじさんのように。
「いらん。別に」
そう答えつつ僕は、バリエーション豊かに並ぶネクタイを見ていた。父はもう六十を過ぎているのだ。もうすぐ定年を迎えるような年齢だ。父に残された時間はそう長くない。あと何年生きられるだろうか。せめて十年、できれば二十年くらい生きてくれるといい。
あらためて振り返って見る父の顔は、やはりどこか他人のようだった。だけど、それこそがまぎれもない僕の父なのだ。それを胸にかみしめる。そしてちょっと派手な山吹色のネクタイを、僕は手に取る。