第4期 #14

エチュードをもう一度

 煉瓦造りのアパートメントの窓からショパンの「革命」が聞こえる。見事なピアノだ。七十を越える老齢になっても腕は衰えていない。いや、衰えるどころか、これほど情熱的で鬼気迫る演奏を私は知らない。彼は自分の運命を知っているのだ。
 道端で立ち止まる私を非難するように、部下が声をかけた。
「少尉、任務をお忘れですか」
「この曲も、あと七小節で終わる。最後だ。弾かせてやろう」
 子供の頃、私は彼にピアノを教わっていた。もう二十年も昔のことだ。

「フリードリッヒ君。ひとつ、お願いがある」と老ピアニストは言った。「君も音楽を愛する人のひとりだ。わかってくれるだろう」
「ピアノは無理です。ここにピアノはありません」
「わかっている。私は紙と鉛筆がほしいのだよ」
「それもだめです。特に鉛筆は……凶器にもなりえますからね」
 老ピアニストはうつむいて沈黙する。
「すいません。先生。もう時間です」
「フリードリッヒ君! 紙だけならいいだろう。紙きれ一枚でいい」
「……いいでしょう。紙一枚だけ。ただ誰にも見つかってはいけませんよ」
「ああ、ありがとう。フリードリッヒ君。ほんとうにありがとう」
「どうするんです? その紙を」
「ああ、フリードリッヒ君、もうひとつお願いがある」
「先生。その手には乗りませんよ。私だって、だてに十年も軍人をしているわけじゃないんですよ」
「違うんだ、フリードリッヒ君。紙にかいてもらいたいんだ。私がダメなら君にかいてもらうしかない」
「わかりました。しかし、ほんとうはだめなんですよ。手紙は禁止されています。今回だけ」
「いや違うんだ。手紙じゃない。君にかいて欲しいのは鍵盤なのだよ。紙にピアノの白鍵と黒鍵を描いてほしいんだ」

 鍵盤を描いた六枚の紙を渡すと、老ピアニストはそれをいとおしそうに独房の地面へ並べ、左手でドレミファソラシドと弾いた。それは私が彼の最初の授業で教えられた指使いだった。
 そして、彼は両手をつかって、もう一度ドレミファソラシドと弾いた。
 あの、透き通るようなピアノが私の胸の中で響き、上昇していった。
 老ピアニストは私を見上げ、子どものように微笑んだ。
「ありがとう、ほんとうにありがとう」
 老ピアニストが紙を片づけようとしたので私はあわてて声をかけた。
「待って下さい、先生、弾いていただけませんか。一曲、私のために」
 彼はもう一度私を見、やさしい笑顔で言った。
「革命かい?」
「ええ、そうです」



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