第39期 #20

クレーの夜

女はクレーの画集を肴に、一杯呑むことにした。

まず飛ばし読むようにめくっていくと、様々な色が目に飛び込んできて、頭の中がからっぽになって、女の体を大きな目玉にかえた。最後まで終わると女は本を抱いて、もう一度同じことを繰り返した。今度は大きな目玉の女の前に、音のないリズムが立ち上がって、楽譜が勝手に踊りはじめた。

色とひとくちに言っても同じ色はひとつもないなあ、と女は思った。赤っぽいのを赤、黄色っぽいのを黄とひとくくりに判断しても、赤は隣の黄色と混じりあって、赤っぽい黄色となり、そのまた隣の緑とあわさって、赤っぽい黄緑となり、その交わり方に無理も無駄もなく、全体がつながって一枚の絵として調和している。女はクレーに感心した。二杯目をグラスに注いだ。

だんだん女はクレーの絵のさわやかさが憎らしくなってきた。本当に、そうなの? 女は今度は画集をめくるのをやめ、適当にページを開いた。題は「森の奥」といって緑一色の一枚だったがもちろんクレーの緑である。その眺めは、写真集で見た屋久島やアマゾンのジャングルといった壮大な森林ではなく、むしろ女が小学生のころに住んでいた四国の、ある村の、裏山の茂みを連想させた。その裏山には溜め池があって、ブラックバスやブルーギルを釣りにいった。

さきほどのさわやかさとはうってかわって、泥道や虫やねっとりふきだす汗、何か悪いことをしているような淫靡な遊び場としての森がそこにたちあがって、女はこのまま絵とともに、もっと山の奥へ入っていけるような気がした。が、やめておいた。また本を抱きかかえ全体をぺらぺら繰っていったら、そうやって眺めるぶんにその絵は優しくて優雅で艶のあるクレーの森であった。

女は三杯目を飲みおわると、画集を本棚に戻し、それからトウフのようにぼんやりしていた。やがて立ち上がってカーテンを開け、ベランダからみえる夜の明かりを眺めていたら、クレーの画集のように、光のひとつひとつが踊りだすのをみた。高松に帰ろう、と女は思った。

ベルが鳴って男が入ってきた。男も酔っぱらっていて、獣の匂いがした。あたし四国に帰る、と女が言うと、男は携帯電話をトイレに落としたような顔をした。嘘よ、嘘だよ。女はそう言ってベッドに倒れこんだけれど、それから女の頭の中には森が広がっていって、男の抱きしめる両腕では包み込めないくらいの闇が深まっていって、まもなくすとんと眠りにおちた。





Copyright © 2005 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編