第39期 #19

自慰

 最高の自慰だった。俺はかつてこれほど深遠かつ濃厚な快楽を味わったことがない。宗教的な高揚感すらあった。大袈裟だが、神に近づいた気さえしたのだ。
 その恍惚の時、ドアチャイムが鳴って焦った。大学卒業以来、数年ぶりに会う友人だった。背広姿の彼は仕事で近くまで来たらしく、俺がこの辺りに住んでいたと思い出し、寄ったのだと言う。友人はあいつが結婚しただの、誰が会社を辞めただの、部屋に入るなり懐かしい話をしだした。俺は汚い部屋ですまないと言い、茶を出し、そして座った。しかし落ち着かない。しばらく雑談が続き、その時になってはじめて気づいた。
 友人が、俺の股間を見つめていた。学生時代に俺が好きだった女の話をしながら、俺の股間から視線を外さないでいる。俺はうろたえた。まさか、白濁の液体が下半身に付着しているというわけではあるまい? それは有り得ない。俺はなぜなら、行為に耽る時は必ず下半身を全裸にしてから行い、先ほどの行為もそのようにして行われたからだ。そして噴出の寸前に3枚のティッシュで亀頭を覆ったのだから、飛散している可能性もない。しかし万が一がある。俺は自分の目で液体の付着の確認をしようとしたが、視線を動かせなかった。もし、股間を見ることで俺が股間を意識していることが友人に気付かれたら。その結果俺が直前まで自慰していたことが友人に知られれば……、と思い至ったところで友人が鼻をすすった。この暖かい五月の日和になぜ? 風邪か? それとも友人はまさか、この部屋に残存しているかもしれないあの、独特の匂いを嗅ぎ探ろうとしているのか? 匂いがするのか? いっそ聞きたい。しかし聞けない。友人の視線がその時、俺の股間から離れた。俺の背後の本棚を見ていた。まさか友人は、自慰の材料に使用する類の猥褻雑誌を探そうとしているのか? しかし俺は自らの想像力を糧にして己を射精まで導くがゆえに、雑誌など本棚には見つからないはずだ。いやしかし、一冊くらいはあるかもしれない。酔って買ってきたことくらい、あるかもしれない。かもしれないかもしれない。俺は思い描いた。友人が弾むように立ち上がり本棚の前まで一気に飛び出し、その一冊を本棚から抜き取り、女性の輝かしい裸身で彩られた艶やかな幾ページをぱらぱらと勢いよく爪弾く姿を。その想像で俺が眩暈を感じた瞬間、友人が立ち上がった。
「それじゃあ」
 友人は帰った。


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