第39期 #11

そしてとても温かかった

 水曜の夕暮れ、曲がり角で、硝子の小瓶が倒れます。それだけです。ただそれだけです。占い師は言い終わると、口をつぐんだ。長い黒髪が顔を覆い、さっきまで穴が開くほど見つめていたのに、輪郭さえも思い出せない。

 占い師に見てもらったのは、取りたててなにか悩んでいるというのではない。仕事からの帰り道を一筋手前で路地に入っただけだった。いつもとはほんの少し違う何かを期待してしまう。水曜日というのはそんな気分になる。
 生まれてこのかたこの町から出たことがなかったので、まさか知らない道があるとも思えなかったが、目の前に広がる景色に見覚えはない。こじんまりした間口の店屋が数軒並んでいる。洋服店、お茶屋、玩具店、団子屋、染め物屋、雑貨屋。店先に置かれた籐かごに、手に取りやすいよう品物が積んであり、風が吹くとそれらが一斉にふるえた。それぞれに趣向を凝らした看板が、軒にぶら下がっているもの、立てかけてあるもの、足元に敷物のように置いてあるもの、様々だった。それくらいのことなら、どこかの町のどこかの路地にもありそうなものだ。しかし、どこにもないと思うのは、その色合いからだった。路地に一歩踏み入れたとたん、がくんと膝が抜けたような気がして、なにもかもが一瞬に色褪せてしまったのだ。何事もないように、お店の人は忙しく立ち働き、お客さんは積み上げられた商品を物色したり紙袋を手に提げて歩いている。意を決して一軒の雑貨屋に立ち寄った。そして丸テーブルにぽつんと置かれている硝子瓶を買ったのだ。何も入っていない瓶は軽く、硝子を通して見る景色はとても懐かしい感じがした。

 惜しむように路地の出口に差し掛かる。見慣れた横断歩道とその先に、橋へ続く坂道が見えた。ここを曲がれば家まで5分とかからない。夕日が山沿いに沈み始め、まぶしさに目がくらむ。倒れないように目を閉じ、ふたたび目を開ける。路地の出口で椅子に座っていた占い師はもう店をたたんだようだ。路地も町も薄闇に沈んでいた。



Copyright © 2005 真央りりこ / 編集: 短編