第38期 #14

テープレコーダー

 塔の最上階で空を眺めていると、美しい声が聞こえた。
 耳を澄ませる。
 美しい泣き声だった。
 空よりもずっと青く淡い色、それを思わせるとても美しい泣き声。
 空を眺めるのをやめ、テープレコーダーを持って、あたしは塔を下り始めた。
 人々が忙しそうに行き交う駅前の雑踏にたどり着く。ガラスが割れていて日の光にきらきらと輝いていて、その上を人々は歩き、ガラスはさらに粉々に壊れ、信号が変わり、一斉に走り出す車、しかしそれでもあたしには何も聞こえない。ずっとずっと、あの美しい声しか聞こえない。歩き回る。歩き回る。太陽の下、あたしは歩き回る。
「どこへいくんだい?」
「聞こえないの? この泣き声」
「ああ、聞こえているよ。今日はいい天気だね」
「さよなら」
 歩き続ける。
 線路脇の狭い路地、電車がのろのろとあたしを追い抜いていく。のろのろと視界から消えていく。見えなくなる。公園には噴水があり、そばにしゃがみこむ。日傘を持った老婆はあたしにハンカチを差し出した。泣いているのはあたしだろうか。あたしだったのか。違う。あたしは泣いていない。汗一つ描いていない。ハンカチを受け取る。老婆はふらふらと歩き続ける。ベンチに座っていた紳士に、彼女はハンカチを差し出した。
 美術館を通り抜け、海岸を歩く。
 波打ち際のあの病院へ、あたしは入る。
「調子はどう?」
 母の病室に入り、声をかける。リンゴを剥いてやり、手をさすってやる。
「調子はどう?」
 母は何かを答えた。あたしには泣き声しか聞こえなかった。
 病室から出て、再び海岸を歩く。
 ふと振り返る。
 母の病院は目に入らなかった。
 目の前には怪物が居た。
 ぐちゃぐちゃでめちゃめちゃな色彩の、どうしようもない形状の怪物が、そこに居た。
 怪物は泣いていた。
 あたしはテープレコーダーのスイッチを入れ、怪物に向かって歩き出した。
 良かった、本当に良かった。こんなに近くでこんなに美しい声を聞けて、本当に良かった。
 怪物はあたしの肩に両手をかけた。頭がゆっくりと開き、まばらにならんだ長く鋭い牙が見えた。少し怖かった。が、声をあげることだけは出来なかった。こんなに美しい泣き声をとっているのだから、それは出来ない。震えながらもこらえた。
 怪物は泣いていた。慰めて欲しいのかもしれない。怪物の頭がゆっくりとあたしの喉へとかかる。寂しそうに震えながら。
 あたしは声を立てない。慰めもしない。



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