第38期 #15

コロティの想い出

急停車と同時にドアが開き、女が飛び出す。運転手は「ちぇっ」と呟いて発車した。私はその場に居合わせた。6歳だった。

女は両手に豆腐を持っている。それは生のままで、そのために彼女の手はぬれていて、豆腐は今にも地面にこぼれおちそうだった。

「あの。お姉ちゃん」
「なによ」
「どうしてトウフもってるの」
「ボクには関係ないのよ」
「もったいないよ」
「仕方ないの。子供にはわからないことなの」
「子供じゃない」
「いくつ」
「6歳」
「子供よ」
「マーボードーフつくれるのに?」
「嘘でしょ」
「ほんとだよ。うちくる?」
「お母さんいるんでしょ」
「いないよ」
「ほんとに」
「ずーっといない」
「名前は」
「J」
「J? あは。探偵みたい。あたしT」
「T、早くしないとトウフ悪くなる」

私は女を家に連れて帰った。

「さあ、作ってもらおうかな」
「うん」
「ほら」
「嘘なんだ」
「嘘?」
「うん」
「どうして嘘なんか」
「だって」
「仕方ない、冷蔵庫は? あ、挽肉あるね。味噌と砂糖に塩でしょ。なんとかできそう」

私はご飯を温め、女はマーボードーフをつくり、二人で食べた。女は「ちょっとごめんね」と涙を流し「あたし間違った結婚しちゃった。でももう遅いの」と独り言のように呟いた。私は黙って食べた。おいしかった。

「帰るよ」
「帰れる?」
「どうせ待ってるだろうし」
「僕と」
「ん?」
「僕と結婚しようよ」
「あは。それは未来の恋人にとっててあげなさい」
「いやだ」
「じゃあJに魔法かけてあげる」
「魔法?」
「コート・ロティ」
「コロティ?」
「ん。覚えとくのよ、じゃあね」

その日から20年。私は恋人を一人もつくらなかった。時々、豆腐を持っていた女のことと彼女が私に残した魔法を思った。「コロティ、コロティ」

ある日ブック・バーへ出かけた。ここは本を薦めてくれる酒場だそうだ。店に入るとカウンターで女が一人で飲んでいる。当然本を話題に酒を飲む。私は森有正と水上勉の関連性について語った。
「その組合せって、ドライブに豆腐を持って行くようなものよ」
「豆腐?」
「そう」
「ドライブに豆腐?」
「ん。それがどした? あ、ワイン、コート・ロティなんだけど一緒に飲まない?」


「あなたは、あなたは!」私は思わず席を立っていた。
「ど、どしたの」
「魔法なんだ。豆腐とドライブそれに、それにコロティ」
「よくわからないけど、変な人」
「T、魔法を解いたぞ」
私の呟きに女はこうこたえた。

「よくある、本当によくある話よ、J」



Copyright © 2005 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編