第37期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 かおり 愛留 998
2 現在 逢澤透明 988
3 本日は晴天なり。 EMI 1000
4 ホールド・アラフト・ヘイローズ 闇羊 1000
5 夏の香り 千葉マキ 231
6 白のバラライカ 神藤ナオ 935
7 なみだ シグレ 740
8 緑の草原を夢見て 朝野十字 1000
9 三歳はお年頃 藤代環 822
10 味噌汁 小松美佳子 708
11 えぃでんの実 麻生新奈 734
12 夢なら覚めよ しなの 983
13 山上博士と下山助手 三浦 482
14 平穏 刻黯 972
15 祭囃子の遠く とむOK 1000
16 莫迦が二人と、蜜柑が一個 エルグザード 719
17 いっぱいのかけそば るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
18 ブック・バー「デニス」 宇加谷 研一郎 1000
19 英雄 qbc 996
20 宙の縮図 五月決算 900
21 バキューム 曠野反次郎 999

#1

かおり

 記憶にあるこの香り。何の香りだっけ。

 いつも通りの道を歩く私。周りには誰もいない。朝練があるから家を出るのは普通の人より1時間位早い。さっきから気になってるこの香りの正体を考えながら歩く私。そんな事でも考えてないと、昨日の事を嫌でも考えちゃうから。

 10月2日木曜日。雨。

 「大っ嫌いッッ」

 教室に響き渡った言葉は私に向けられたものだった。恥ずかしいとか、そういう部類のものじゃなかった。静まり返った教室に私を残して、その声の主は去っていった。
 私はただ彼女の話を笑っただけ。だって。私に愛のキューピットみたいな役をやれって話。漫画じゃあるまいし。
 彼女の名前は優利。名前どおり優しくて利口な子。優利とは友達以上恋人以下。親友ってやつ。私にとって彼女は、そりゃ大切ですとも。別に男に優利がとられる、とかは思ってない。…と思う。
 でも、好きなら真っ向勝負っていう直球勝負派の私に、その話は馬鹿げて聞えたわけで。優利だってそんな事分かってただろうに。
 だけど親友と思ってる子にそういう言葉を言われると、意外とコタえる。協力してやればよかったのかなぁと思ったり。でも、それじゃぁねぇ。

 昨日が金曜日で、今日が休みだったらどんなに良かったか。さすがに気が重い。教室にいた友達とも会いたくないな…って。結局考えてんじゃん、自分。なんだかなぁって一人で笑った時だった。

 「かおりィ―…」

 聞き覚えのある声。

 「かおりッ」

 私に追いついて一言。

 「昨日はごめんなさいっ」
 「…」

 ビックリするでしょ。だって、優利は朝練ないもん。しかも、謝られてる?私。

 「なんかあったっけ」

 心とは裏腹な言葉。
 嘘つき。昨日のあの時から今のイマまで考えてたくせに。

 「っ何でもない」

 そう言って微笑む優利。
 二人でのんびり歩くいつもの道。

 「かおり。あたし今日直球勝負してくるから」

 そう言って青い空を見つめる優利。
 やっぱり。分かってたんだ。

 「ふぅん。陰ながら応援してるゎ」
 「なんかいい加減な応援だなぁ」

 眉間にしわを寄せて優利がまた笑う。本気で応援してる、なんて言葉は要らない。だって。優利はきっと分かってるから。

 「ぁ。キンモクセイの香りだぁ」

 突然優利が言う。
 思わず笑う私。そんな私を不思議そうに見る優利。

 そっか。キンモクセイだ。

 二人で歩くいつもの道。笑い声が響くいつもの道。

 10月3日金曜日。快晴です。


#2

現在


 私はそこに入る。小さな箱の中へ。手足を折り、背を丸め、顔をできるだけ胸に引き寄せるように首を曲げる。小さな立方体の中へ。バタンと扉を閉められ、閉じ込められる。私は小さな箱の中に。暗闇の中に、苦しく蒸し暑く窮屈な姿勢も、長く続けていれば、気の遠くなるほど長く同じ姿勢をとれば、その苦しみもまた、不思議と心地よく感じてくるものだ。楽しいかと問われれば、自信を持って楽しいと言えるわけではないが、しかし悪くはないのではないか、とも感じている。他人に勧めたりしようとは思わないけれども、これはこれで、なかなかではないか。こういう生活もあなたの生活とそう違いはないのではないか。
 私を入れた箱は持ち上げられ、移動を始める。どこへ向かうのか、だれが運んでいるのか、量り知ることはできないが、おそらく神に似たものであることは明らかだろう。なぜなら、そのものは箱の外から常に私に語りかけてくるからだ。私は、ゆらゆらと、おそらく空中を揺られながら、その声に耳を傾ける。
「望め、望め。自由を望め。その哀れな姿を恥じよ。その箱から出なくてはならない。その惨めな姿を。その悲しい姿を。決して満足してはならない。自らの足で歩け、自らの手で掴め、自らの声で話せ。閉じ込められた箱を破壊せよ。望め、望め。自由を望め」
 神は、あるいは神に似たものは私に語る。そうだ。私はここから出なくては。この苦しく哀れで惨めな悲しい境遇を打ち砕き、自らの手で人生を切り開いていかなくてはならないのだ。ぐらぐらと揺れ、どこかに運ばれていく小さな箱の中に、私は手足を折り、背を丸め、顔をできるだけ胸に引き寄せるように首を曲げて、入っている。こんなことが許されてよいわけがない。たとえ、自分の意志で箱の中に入ったとしても。
 私はナイフを手に持っている。それを握りしめ、箱に突き立てる。すると箱は激しく振動し、甲高い悲鳴が耳を貫く。箱は落ち、私は背中を打ちつける。
 血まみれになった箱を切り裂いて、私は外に出る。箱はまだ激しく振動し、血を噴き出している。そばに神に似た小動物が震えながらこちらを見つめている。まるで怯えているようだ。そして言う。
「さあ、これがおまえの望んだものだ」
 腹が空いている私は、神に似た小動物を踏みつけて殺し、それを食らう。外は寒い。こんな世界はまっぴらごめんだ。箱が必要だ。私には新しい箱が必要なのだ。


#3

本日は晴天なり。

小学生のころの、夏休み。僕らはただ、灼熱の太陽に身を焼かれて、無邪気に遊ぶ事が常だった。とくに、近所の田んぼにいる田螺やら土壌やらは、僕らの獲物。ペットボトルで作った罠に引っかかる土壌を、僕達は喜んで獲っていた。
疲れれば、駄菓子屋へ行って、10円のアイスクリームを買った。それが死ぬほどおいしかったことを、今でも覚えている。当たり・はずれがあり、当たりならもう一本もらえるというものだった。
「あかん」
「なんや、けんちゃん」
「10円持ってくんの忘れてもうた」
「アホ」
「あーくん、あと10円持ってへん?」
「持ってるわけあらへんやろ」
「よしおは?」
「持ってへん」
けんちゃんの家は貧乏だった。『忘れた』ということを口実にして、彼はいつもアイスを買えないでいる。僕はいつか、けんちゃんに大量のアイスクリームを買ってあげたいと思っていた。
 ある日、いつものように僕らは駄菓子屋に行き、アイスクリームを買った。
「はずれや」
「ここのアイスが当たるわけないやろ」
この駄菓子屋のアイスは、当たらないことで有名だった。通称『はずれアイス屋』とも呼ばれるほどだった。
今日もけんちゃんは忘れたと言って、アイスを食えないでいた。
「けんちゃん、アイスクリーム食ったことないんやないの?」
僕は彼に訊いてみた。今思うと大分失礼な言葉だと思うが、けんちゃんはなんの抵抗もなく答えてくれたことを覚えている。
「せやなあ。一度でいいから、はずれアイス屋のアイス、食ってみたいわ」
へへッと彼は無邪気に笑って、僕の舐めているアイスを愛しそうに見つめていた。
「あげへんよ」
「お前の舐めたアイスなんて食いとうないわ」
僕は心に決めていた。明日、父からの小遣いで30円をもらえる。彼にアイスを買ってあげよう。けんちゃんの、アイスを食べて笑う姿が見たい。明後日はけんちゃんの誕生日だった。

はずれアイス屋が閉店したのは、僕が心に決めた次の日だった。主人のおばあさんが死んだらしい。急性の心臓発作が原因だった。
けんちゃんは結局、はずれアイス屋のアイスを食べることはなかった。けんちゃんは悔しそうに店の前に立ちながら、唇をかみ締めていた。
あれからもう、50年が経つ。けんちゃんが死んだ、という知らせが僕の元に届いた。享年63歳。今になって、アイス屋のバニラアイスの味が蘇った。

本日は晴天。孫を、田んぼに連れて行った。
帰りに、105円のアイスを買ってあげた。
 
 
 




#4

ホールド・アラフト・ヘイローズ

 電話が鳴った。
「スルドの始末をしくじったわね。あなたのこの失敗により組織はヴィーンらにミギィ調査書を引き渡すこととなったわ。そのほかに組織の経済的な被害は推計50万ドルのぼる。従って、組織は見せしめにあなたの処分を決定した。LA中央公園で私に殺されなさい。では、あなたに心の平穏を。さようなら」
 電話は切れた。
 
 彼はLA中央公園喫茶へ向かう。
 公園内に人は疎らで、時折親密な距離を保ちながらジョギングする二組の男が彼の前を通るだけだった。
 彼は給仕が持ってきた紅茶を口に含む。ここ数日まともな食事をとっていないがまったく腹は減っていなかった。
 やがて、彼の前に一人の黒服の女が現れる。処刑執務者は組織の慣例に従い、どのような場所でも黒服と拳銃を持ってやって来る。そして、処刑執務は組織成立からずっと一人のある女が担っていて、その女の名前は死神のように噂されていた。その美貌と若さは40年以上衰えることはない。目の前に現れた女もそのような女だった。
 女は彼が座る席の対面に音もなく腰掛ける。そうして、彼の本名を口にしたあと、訊ねた。「言い残すことはあるかしら」
「特に。強いてあげれば、窓際で育てていたサボテンのことが」
「いつから育てているの」
「母親が殺されたときからです」
「6年前ね。母親の敵を討ちたかった?」
 彼はそこで乾いた喉を鳴らす。「この仕事をしている連中のうちに、そんなこと考える奴は一人もいないですよ」
「それもそうね」
「人を殺していくうちに、結局何もかもがそうであるか、そうでないかの違いでしかないように思うようになる。考えるのではなく、ぼんやりとそう悟っていく。照明のオンオフを切るように、」彼はそこで言葉を切った。「後5分くらいでゲイのカップルが周回して向こうから見えてきます」
「そう。いまの心境はどんな感じかしら」
「悪くないね」
 彼は言う。
 女は袂から重々しい拳銃を取り出すと、白い布で拭った。それから、手鏡で背後左右を確認すると引き金を絞った。銃弾は彼の心臓を寸分疑うことなく撃ち抜き、背もたれに挿まれたクッションに柔らかに包み込まれた。硝煙は静かに立ち昇り、上空でさまよってそのまま魂のように消え失せる。
 女は彼の亡骸を横切るときに瞼を閉じさせた。そうして、何の痕跡も残すことなく立ち去っていく。
 その四分後、二人の男のカップルが死体を発見し、あたりは穏かな喧騒につつまれる。


#5

夏の香り

 あの夏の日、あの人はいつも香りに包まれていた。
甘く、切ない香り。
夏なのに、いや、夏だからこそ、あの香りなんだろう。
男の甘い香りも悪くない。
あの人らしさにピッタリ合っていた。

 誕生日に同じ香水をくれた。
イブサンローランのジャズ。
大きさは違うが同じ香りに包まれて幸せだった。
でも、その幸せもいつの間にか溶けていた。
夏が終わる頃、一夏の恋はあの香りのように切なく消えた。

 二年経った今年の夏、あの香りが忘れられない。
思い出す、あの頃の二人。
 
 今でも好き、、、です。


#6

白のバラライカ

 ぐんにゃり曲がった標識の下。座り込んだ膝に白のバラライカひとつ置いて、ぼーっと砂漠を眺めていたのです。
 砂漠は静かです。時折吹く風と自分の鼓動だけが音です。
 夕焼け空がいっぱいに広がっています。驚くほど赤い夕日が地平線に溶け 砂漠のさらさらした砂がしっとり温められていきます。そのしっとりした砂がパッと散ったのを感じ、僕は道の方を向きました。
 いつの間にか標識のそばまでやって来たサボテンは、少しばかりトゲトゲしく言いました。
「退屈そうだねベイビー」
「まあね」
 けれど実の所 僕には退屈な気持ちなどひとつも持ち合わせていなかったのです。
 サボテンは夕日で染まった赤ら顔を震わせて笑いました。
「ズバリ言ってベイビーは何かヘヴィな悩み事を抱えているね?」
 思わずぎくりと胸を押さえると、サボテンは得意満面でふんぞり返りました。ゴツゴツした顔に鼻のようなコブが幾分高くなったようにも見えます。僕が顔をしかめてみせても、彼はちっとも気にしていないようです。
「ここで会ったも何かの縁さ。オイラで良ければ話し相手になるぜ?」
 言葉だけは頼もしいのですが しかしやはりどう見ても僕の目の前にいる彼はサボテンです。身長九十センチほどのサボテンです。小さいトゲがポツポツついたサボテンです。
 ぐんにゃり曲がった標識の下で座り込んだ僕は、白のバラライカ抱えて ハーッとため息をつきました。夕日がいくらかにじんでいます。砂漠の風が冷たくなってきました。間もなく夜になるのでしょう。
「イテッ」
 丸めた背中に、トゲ付きの手がぽんと置かれました。
「……オイラの名前を漢字にしてみな」
 その声は、大変穏やかでした。
 「仙人の掌」と僕が答えると、サボテンは深くうなずきました。
「仙人でなくその掌にだけ、そっとベイビーの悩みを打ち明けてくれないかい」
 しばし何も聞こえませんでした。
 僕は震えながら白のバラライカを握り締め、長年の悩みをトゲだらけの顔に告げました。
「……僕は、バラライカが弾けないのです」
 しばらくの間 砂漠には嗚咽と風の音だけが絶えることなく響いていました。僕は泣きながら 彼の手は抱き締める時にだけはトゲが刺さらないのだろうかと考えていました。
 砂漠に もうじき 夜がやって来ます。


#7

なみだ

涙が溢れた、ぼろぼろ、ぼろぼろ
あたしの小さい瞳から、あたしの大きな涙の粒が、
ぼろぼろ、ぼろぼろ、とめどなくこぼれた。
黄色いワンピースには幾つかの小さな涙の染みが出来た。
でもあたしにとっては、とっても大きな染みだ。
だって重いんだもの、あたしの涙の意味は。




このたくさん溢れた涙を、ビンにためることにした。
これにはあたしの色んなきもちが含まれてて、
やさしさだとか、かなしさだとか、つめたさだとか、あたたかさだとか。
ちょっぴり舐めてみたら、海の水みたいにしょっぱかった。
もし甘い涙だったら、どんなに泣いても、
この涙を舐めて、元気が出たかもしれないのに。
ちいさな溜息がでた、溜息ついたらしあわせ逃げるっていうけど、ほんとうかもしれない。




空を見上げた、流れる涙をおさえるために。
涙は瞼のうらにたまって、ふるふると震えていた。
あたしの体は、涙でぼやけたあの大きな空に吸い込まれそうになった。
あらっ空に比べたら、あたしのこのきもちなんてちっぽけなものじゃない。
自然とすーっと軽くなった、涙はあたしの体から消えていった、また会いましょう。




涙のたまったビンを眺めていたら、気付いたこと。
涙のいろはおもっていたよりもうつくしくて、
なんだか胸はキュンとなって、また涙が溢れてきた。
クリアーないろ、あたしの体からはこんなすてきな涙があったんだ。
やさしさだとか、かなしさだとか、つめたさだとか、あたたかさだとか。
ぜんぶがあたしを支えてたのね、だからいまこうやって生きてる。
泣いたっていいじゃない、溜息ついたって、次の日は大きく息を吸えばいい。





いま涙が心地良い愛しさに変わった。
泣きたい時は泣いてもいいよね、だってそれが生きてるって証拠。
全部流しちゃえば、さいごにはきらきらした世界が待ってる!きっと待ってる!


#8

緑の草原を夢見て

 夜空が暗いのは、宇宙が暗いからである。宇宙にはほとんど日が差さなくて、夜がこの世界の本当の姿である。夜空がこの世界のありのままの色である。けれども、ビックバンのころは、宇宙は光に満ちていた。
 暗い宇宙がこれからどうなるかというと、ますます暗くなっていくばかりである。宇宙は膨張しているし、だからかろうじて光っている星々の間は遠くなる一方である。それから熱力学の法則があって、エントロピーは増大し続ける。エントロピーというのは、簡単に言えば、部屋の散らかり具合のようなものだ。宇宙はどんどん散らかり続け、どこに何を仕舞ったか分からなくなり続け、そもそも何かをどこかに仕舞ったことすら忘れていく、それがこの宇宙を貫く真理である。言い換えればそれは、歳を取って不意に思い出す永遠の夏の日である。
 お盆に祖母の家で古い百科事典を開いて星座を調べていたのは、夏休みの宿題か何かのためだったろうか。大判一頁をすべて使って暗黒の中にぬらぬらと光り浮かぶ淡い朱色の星雲のカラー写真があった。じっと見るにつけ、世界の底がこんなにも深く冷たくたゆたっていることがしとしとと背中に染みてきた。私はぱっと立ち上がり、急いで祖母のところに駆けて行って、彼女のしわくちゃの手を掴んだり腰に頭を押し付けたり拳で叩いたりした。そうして宇宙が途方もなく暗く深く背筋がぞっとするほど冷たいことを訴えた。
 記憶とは奇妙なもので、子供のころの思い出の中に自分の姿が入り込んでいたりするものだ。私は廊下だか台所だかに祖母と共にいて、その辺りは薄暗く影になっている。その先の障子が開いて縁側の向こうに庭が見えた。植木や花壇や芝生の上に焼け付く夏の日差しが白く厚い層をなしてべっとりとたっぷりと降り積もっていた。祖母は生まれ故郷のとうきび畑の話をした。彼女がまだ少女であったころ、祖母の父や母や弟や妹がいて、みなでもぎたてのとうきびを茹でて食べたという。私は薄暗闇の中で祖母が宇宙の深みに落ちてしまわないように腕を掴んだまま、夏の太陽の下にきらきらと続くとうきび畑を一生懸命想像した。
 緑の草原を夢見てる。黄色い野ばらの咲いている。紫の葡萄の木のそばに立つ。緑の草原に会いに行く。
 私は先日祖母の生家を訪れようと思った。思っただけでまだ行ってはいない。それは大した問題ではない。そもそも祖母の生家を知らない。それは記憶の中に今も白く輝いている。


#9

三歳はお年頃

 薄暗い室内。小声で交わされる会話。
「ねぇアケミ、あんた最近気になる子、いないの?」
「何よ突然……そういうヨシコはどうなのよ。いるんでしょ? 気になる子」
「べ、別にいないけど……」
「隠したってダメ。あなたが自分から恋話を持ちかけるなんてそれ以外考えられないわ」
 腕を組みなおすアケミ。大きく息を吐くヨシコ。
「バレバレかぁ。へへ、相変わらず鋭いね」
「誰でもわかるわよそれぐらい。で? 誰なのよ? 気になるのって」
 しばしの沈黙。その後に挙がる一つの名前。
「……タカシくん。知ってる?」
「あぁ……彼ね。へぇ〜、あなたの好みは相変わらずね。でも彼、ちょっとだらしなくない?髪はボサボサだし、食事の時もやたらとがっついてるし……」
「何言ってるのよー。そこがいいんじゃない。ボサボサの髪に豪快な食事、野性味溢れててとっても素敵」
「そうかしら? ま、好みの問題なんだけどね
 苦笑いを浮かべるものとふくれっつらをするもの。
「むー。それじゃああんたはどんな子が好みなのよ」
「そおねぇ……私は手入れが行き届いているサラサラの髪で、物静かな、繊細な子がタイプね。ユウジくんとかいいかも」
「私とまるっきり正反対じゃない……」
「いいんじゃない? 女の友情は好みが違うほうが長続きするものよ」
「アケミ……」
 お互いの顔に出る笑顔。穏やかな空気。
「ま、今度私がタカシくんとヨシコを二人っきりにさせてあげる。応援するわ。あなたのタイプど真ん中でしょ、彼。ベストカップルの誕生ね。子供の顔が早くみたいわ」
「もうっ! 茶化さないでよっ!」
 バシッと背中を叩く音。照れ笑いと冷やかし笑い。
「いたた……あんた爪伸びてるわよ。ちゃんと手入れしとかないと彼に嫌われちゃうわよ。女のたしなみを……しっ!! 来たわ……」
 素早く、迅速に隠す身体。コツコツと壁越しに伝わる反響音。

――― ガチャ。

響く開錠の音。ぐるりと照らされる室内。そして聞こえる一人の声。

「ライオン小屋、異常なーし」

(了)


#10

味噌汁

 学校から行く旅行の旅館の食事は、どうしてあんなに不味いのだろう。
 すべての料理が何時間も前に調理されたもので、完全に冷えてひからびている。
 子供相手だからと思って馬鹿にしている。こんなものを食わせるくらいなら、いっそのこと弁当にしてくれればいいのに。
 団体旅行の旅館の冷えた食事の中でも、ご飯と味噌汁だけはかろうじて温かいのだが、この味噌汁が悲しいくらい不味い。
 汁の実だけは色々入っているようなのだが、すべてが長時間煮込まれてくたくたになっている。椀のなかは泥水のようで、香りもなにもあったものではない。

 その団体旅行で、一度だけおいしい味噌汁にありついたことがある。
 その日も、いつものように生徒達が大広間で席に着き、食事のはじまるのを待っていると、仲居さんが味噌汁の入った大鍋を持ってきた。ところが、広間の入口のところで蹴つまずいて、中身を全部こぼしてしまったのだ。「ヤッター」子供たちは歓声を上げ、大声で囃し立てた。
 数分後、慌てて作り直した味噌汁が運ばれてきた。もちろん、急ごしらえである。汁の実は白菜をざくざくと粗切りにしたもの。急いでいるから煮えたか煮えないかのシャキシャキである。汁は舌が火傷するほど熱く、味噌は今溶き入れたばかりで香りが立っている。
 このときばかりは、私も味噌汁のお代わりをしようとしたが、いつもと違ってあっという間に売り切れてしまい、私が行ったときは鍋の中はとうに空だった。美味いものは誰にでもわかるのである。
 その後、旅館での食事のたびに「待ちぼうけ」の兎のように、仲居さんが転げて味噌汁が作り直しになるのを、私はひそかに待っていたのだが、二度と仲居さんは転んでくれなかった。


#11

えぃでんの実

 おじじは、赤く熟した実をもぐと、
「はむっ」
と噛んだ。欠けた歯の跡がついた。
「食うか」
「うん」
 ボクは、おじじの食べかけた実に、かじりつく。甘酸っぱい汁が、口の中に広がる。
「えぃでんは、うまいだろう」
「うん」
 ボクは返事もそこそこ、餓えきった誰かに取り上げられる前にと、えぃでんの実をすっかりたいらげた。

 おじじは、左の腰につけた皮紐から、黒い針金を1本とると、右の腰に移す。

 左の腰には、黒い針金がいっぱい。金色のぴかぴか光る針金が1本だけついている。右の腰にも、黒い針金がいっぱい。にぶい金の針金が、何本かついている。

「えぃでんの実にはな、毒のあるのがある…」
「毒のないのを食べたら黒い針金、だよね」

 えぃでんの実を貰うたびに言われる言葉を、ボクは先まわりして唱えた。


 そして、その日が来た。おじじは、赤い実を一口かじり、飲み込んで。その実を遠くに放り投げようとしたけれど、もう力はなかった。赤い実は、おじじのすぐ足元に落ちて、ころころ転がる。まるで、ボクが何もわかっていない子供で、その実を食べようとしたみたいに、おじじは倒れこむ自分の体で、実が拾えないよう覆いかぶさった。
 ボクが、おじじに駆け寄った時には、おじじの体は、ひくひくと痙攣していた。
「えぃ…で…」
「うん、わかってる、わかってるから…」
 ボクは、おじじを少しでも安心させてあげたくて。ひくつく体に馬乗りになるようにして、左の腰から金色の針金をとった。
 それを、おじじの目の前にかざす。
「ほら、ね、金色の針金…」
 昏くなりかけているおじじの目に、笑みの色が浮かんだような気がした。


 ボクもおじじくらいの歳になったとき、おじじの皮紐を腰に結ぶのだろう。
 そのときまでに、金色の針金を見つけておかないと。


#12

夢なら覚めよ

 高校のホームルームだった。
「若林君が応援に来てくれました。ありがとう」
春日幸男は壇上から言った。私には覚えがなかった。他人の空似だろうと、同級生たちの注視を浴びながら黙っていた。その理由が後年わかることになるとは、思いもしなかった。
 私は五十歳になっていた。恒例の、里帰りを兼ねた夏山登山には、妻も大きくなった子らもだれも付いてこようとはしなかった。独り穂高岳へ向かった。途中で私は、滑落事故にあった。気絶したが、奇跡的に無傷だったので、そのまま山を下った。
 なぜか携帯電話がどうしても通じなかった。林道で車に乗せてもらったが、車の型式がひどく古い。それ以上に驚きだったのは、ラジオに流れていた番組だった。「ゲバゲバ・・」きっとリバイバル放送だと思った。しかしニュースになった時、私はその内容に驚愕した。私は問うた。
「ところで、今年は何年でしたっけ」
「昭和四十×年だ」
 農協の帽子を被った、日焼けした初老の男は事も無げに言った。私は狐につままれたような気分だったが、そのとき空腹感は確かに実感されていて現実感があった。
 私は店を見つけて、牛乳とパンを買おうとした。お金が使えるのかも分からないまま千円札を出した。相手は何事もないようにおつりを出した。私は掌の硬貨を見た。それは旧百円硬貨だった。
「お渡しした千円札何か変ではありませんでした?」と言う私の問いに「いえ何も」と、中年の婦人は怪訝そうに言った。店の外の壁に由美かおりのネグリジェ姿の金属製の広告板が打ち付けられていた。それは真新しく、由美かおりは初々しかった。
 千円札は旧札に変容したのだ。時間の矛盾は相当物に変容して解消されてしまうのだ。私は呼吸が乱れていた。それならば、自分は・・。
 私は見知らぬ学校の脇を歩いていた。流れて来る音楽に聞き覚えがあった。それは自身の高校の校歌だった。私は校庭に入って行った。誰かが私に話しかけてきた。
「若林君、来てくれたんだ」
 私は顔を上げた。そこには春日幸男がトロフィーを持って立っていた。
「うん、ちょっと近くまで来たから・・」
 私は自分の容貌を確認しようと洗面所を探したが、古いトイレに鏡はなかった。すべなく校内を歩いて行った。ふと気付くと私の姿が、窓ガラスに映っていた。暗いガラスの中に、陽光を受けた私の顔が映っていた。それは高校時代の自分だった。夢なら覚めよ。


#13

山上博士と下山助手

「博士」
「どうした下山君」
「自治を始めた猿達が馬鹿を始めました」
「何」
 早速、各研究室を監視するモニター室へ向かうと、中央の大画面に問題の猿達が映し出されていた。
 首にスカーフを巻いた二匹の猿が、鋼鉄製の奥深い建物の入口に立って同種の猿達を中へ送り込んでいた。
 室内が猿で満たされると、二匹のスカーフ猿は扉を閉じた。二匹のうちの一方が扉脇のスイッチを押すと、ガスが漏れるような音が鳴り出した。
「毒殺かね」
 絶叫や、爪で壁を引っ掻く音が始まった。か細くなって行き、やがて止まった。
 スカーフ猿が扉を開くと、入口付近にいた十数匹の猿達が外に向かって崩れて来た。死んでいた。カメラが奥の方を映すと、猿達は暗がりの中で立ったまま死んでいた。
「増え過ぎた数をこの方法で調節しているようです」
 助手の下山が解説している間にも、猿の死体はトラックで運び去られ、次の生きている猿の集団が建物の中へ押し込まれて行った。
「繰り返しているのかね」
「その通りです」
「所詮は猿だな。実験中止だ」
 続けて一言、
「猿も処分」
「では、あの建物を使いましょうか」
「おお、冴えているぞ下山君。さすが」


#14

平穏

日が落ち、夕方から夜の雰囲気が漂いだした大阪の街。
鈴木は会社の同僚の平井と、一軒の居酒屋に入った。
残業が重なった時は、行きつけの居酒屋でいっぱいやるのが、恒例になっていた。
「……でもよぉ、高田部長のやろう、俺を絶対嫌ってるぜ」
ビールをぐいと飲み、平井はから揚げを摘んだ。
「部長と性格の合う奴、会わない奴の差がはっきりしてるよな」
「別に、好かれようとは思わないけど、仕事なんだからよ。もっと俺を信頼したっていいんじゃないか?」
「まあ、くすぶってるままじゃそう思うよな」
「俺たちってさ、このまま年をとっても同じなんだろうか?この周りの奴らだってそうさ。将来の不安を抱いて生きている」
平井は、しんみりと周りを見渡した。
周りでは、たわいのない会話で笑いあっている奴ら、黙々と食べ物を口に運んでる奴、いろいろな客達が酒を飲んでいる。
「お前だって結婚して子供までいるんだろ? 将来の不安は独身の俺よりあるんじゃないのか?」
「そりゃな、仕事で疲れて帰ってみれば、子供の事、仕事の事を、嫁に突っつかれるしな」
「いろいろ考えてるんだけどよ。結局、普段の生活から、一歩も外に出れないんだよな」
平井は一気にビールを飲み干すと、お代わりを注文した。
「結局の所は今の生活から何も出来ずに、年を取っていくのかもな。ビールの泡みたいに、平穏から無数に湧き出す可能性ってのを解っていながら、それに気づかずにやり過ごしていく」
「はじけるのが解ってるからな」
「でもたまに、変化する泡がある。それはグラスの水滴になって、外の世界にでていく」
鈴木は残りのビールを飲み干した。
お代わりのビールがテーブルに届き、平井は一気に半分くらいまで飲み干した。
「でもよ、水滴はこうやって簡単にふき取られちまうんじゃないのか?」
「それを恐れ、一歩も外に出れないんだな」
「違いない。不安を恐れながら、生きていくしかないのかもな。不安がない世界にいきたいものだ」

数日後、鈴木が病院に運び込まれたと聞いて、平井は病院へと急いだ。
病室に着くと、鈴木の嫁、子供の見守る中、鈴木は、機械に囲まれたベッドの上にいた。
「脳死だそうです……。昨日までは、あんなに元気だったのに……」
鈴木の嫁は、涙混じりに告げた。
「これがお前の、行きたかった世界かよ……そんな薄暗い中が、お前の……」
平井の苦渋満ちた顔に、涙がつたった。


#15

祭囃子の遠く

「瑞穂、問三は…ねえ、聞いてるの?」
「もーあづぐって、限界…」
「しっかりしてよ。宿題終わんないと、あかるい明日は来ないのよ」
 突っ伏した後頭部を希美に団扇で叩かれる。希美はウチに泊り込んでもう二晩め。
「明日の花火大会が遊び納めなんだから」
 それで中学三年の夏も終わり。明後日はとうとう始業式だ。
 テーブルの上で希美のケータイがお気に入りの曲を奏でる。桜井からのメールだ。
「桜井たち、宿題一緒にやろうって」
「あいつら、今までそう言って終わらせたためしがないじゃん」
 あたしの頭の中で、桜井その他の、子どもの頃から変わらないお気楽なワルガキ笑顔が並んだ。そのひとつが突然大きくなる。今年急に背が伸びて、でも仔犬のような黒目だけが昔のままの男の子。あたしはそれを無理矢理追い払う。
 宵闇の窓の向こうで、曲が炭坑節に変わっていた。ダサいって思うけど、毎年聞いてると懐かしく耳に馴染むのが不思議。
「調子どう?」
 ドアを開けた母が麦茶の盆を運んでくる。出したばかりの浴衣を着て、袂から樟脳がふわりと匂った。
「ずるいお母さん、自分ばっかり」
「あんただって毎年可愛くしてあげてるでしょ。それより、明日お母さん達忙しいんだから。日没までに宿題全部終わらせないと、あんた達の浴衣はやってあげないよ」
「はいはい」
 どうせお父さんとデートでしょ。この数年、娘の扱いの適当さといったら。
 麦茶を受け取って、あたしは母を追い出す。
「リミットは明日の日没だって」
「あたしら『走れメロス』か」
 希美はミニなのに、片膝立てて行儀が悪い。でもほんとに羨ましい長い足。
「瑞穂に問題です。メロスは何故、独りで最後まで走ったのでしょうか」
「…何それ。知らない」
「答え。セリヌンティウスと二人三脚だと、間に合わないって思ったからです」
「じゃあ帰れ!」
「うそ! ごめんってば!」
 あたしは座布団を上段から打ち下ろした。希美は笑いながら軽く身をかわす。
「そうだ。花火、坂本も来るって」
 ケータイをひらひらさせて希美がにかっと笑う。頭の中に急浮上する大きな黒い瞳を、もう一度あたしは追い払う。
「ふーん。あいつらほんとに宿題終わるのかね」
 あたしは希美の向かいにどっかり胡坐をかいて、数学の問題集をばっと広げた。希美がひゅう、と口笛を鳴らす。
 かりかりとシャーペンを動かしながら、あたしは少しの間だけ、祭囃子の遠く、かすかに聞こえる響きに耳を澄ませる。


#16

莫迦が二人と、蜜柑が一個

「それならさ証拠見せてよね」
「証拠?」
「うん、私が好きだって言う証拠」
 少女がいい、少年が問い、そして少女が答えた。蝉はうるさくないているだけだ。「ミカンが食べたいの、だから、向こうの方に」
 そういって彼女は指をさす。
「ミカンの樹があるからそこから取ってきて」
 確かにそちらの方向には農園があった。
「わかった、じゃあそしたら、好きになってくれる?」
「考えておくわ」
 少年が了承と共に問い、少女は答える。
 じりじりと、日差しが強かった、彼はその空気の中を自転車で軽快にかけていく。汗が噴出しても意に介さない様子で、無心。ただ無心で自転車を漕いだ。
 農園には特別な柵も無く、人に見つかることもなくて、少年はミカンの木を見つけた。
「……これ大きいからこれでいいや」
 幾許か歪で確かに大きい果実を籠の中に収める。そしてまた走り出す。
 ひぐらしが鳴く夏の中を駆けて行く、暑くまとわりつくような大気の中を気にもせずに走り続ける、後ろを振り向くこともなしに少年はただ前のみを見て走り続ける。 ついた頃にはすっかり夕方になっていて、少女はそれでも待っていた。
「あら、お帰りなさい」
「ただいま。これでどう?」
 籠に入れた果実を少女に渡すと、彼女は明らかに不機嫌そうな顔をして。
「これはデコポンっていうのよ、私が欲しかったのはミカン……それにあっちの方っていうのはね」
 少しためて、言い放つ
「愛媛ってことよ」
 確かに、愛媛にはミカンがあるだろう。少年は納得して、そして落胆する。
「じゃ、じゃあまたダメなの?」
「一緒に行くわよ、ミカンを探しに愛媛まで」
 告白が失敗すること、既に百飛んで五十六回。少女は満足そうに笑いながら。
「さぁ、はやく」
 とそれだけを言った


#17

いっぱいのかけそば

激辛篇

 最前から母親が訴えている水を、水を、という弱々しい声は、虚しく宙へ消えていくばかりである。テーブルにおかれた一杯のかけそばのそのだし汁は、唐辛子の赤に禍々しく歪んでいる。二人の息子はその立ち上る赤い湯気に目も耳も鼻も口も犯され、小さな頭をテーブルに突っ伏し、少しずつ冷たくなろうとしていた。
 水を。水を。その弱々しい声に、誰も答えようとはしない。
 窓の外で雪はいよいよ降り積もろうとしている。



猿のかけそば

 ついに俺は猿達から逃れ、自由へと走り出した。ぼろぼろの衣服。汚れた身体。まったく酷い格好だと自分でも思う。だが銃もある。食料もある。そして腕の中には、俺が助け出した女がいる。
(悪く無い)
 人が愛する者と生きていくのにはそう悪くは無い。これで充分だ。
 そう思った時だった。
「ああっ!」
「どうした」
 女が指さしたモノ。それは。
「……なんてことだ」
 崩れ落ちた瓦礫の山。その真ん中に、静かに横たわる巨人像。
 自由の女神。
「なんてことだ……。ここは、ここはかけそばだったのだ!」



ティファニーでかけそばを

 おいしいねー、とかけそばすすってオードリー大はしゃぎ。



運命の恋篇

「かけそばおまちー、あー!」
 がしゃあん。
「ああすんません、今すぐ拭きますので」
 お店のお兄さんは慌ててテーブルの上を拭こうとした。
 丸い目をした優しそうなお兄さんだった。「ゾウに似てるね、このお兄さん」。妹が僕に小さく耳打ちする。
「大丈夫ですよ」
 そう言ってお母さんは雑巾を取ろうとした。そしてお兄さんも。
「あ」
「あ」
 お母さんとお兄さんの手が、触れた。
 赤くなったお母さんの表情は、僕には普段の何倍も綺麗に見えた。



シド&かけそば

 全くあの女ときたらヤク中で、ブスで、ヒステリックに俺に喚くしか脳がねえ。
 何も出来ねえ。何も考えてねえ。あの女は考えるなんてこと、できねえ女だ。だから、だからだから。
 ああ、だからどうしようも無く、どうしようも無く好きなんだ。畜生。畜生、好きなんだ。

 シドは私にそんな風に慌ただしくまくしたてると、かけそばをかきこんで出て行った。待ってろ、いま会いに行くぜ。彼は叫び、走り出す。
 彼が逮捕される前の日の出来事である。



一杯の枕草子

春はあけぼのやうやう白くなりゆくかけそばは



かけそば記念日

かけそばが良いねと君が言ったから3月6日はサラダ記念日

(評)二人の仲の悪さが切なく表されていてモダンですね。


#18

ブック・バー「デニス」

マット・デニスの歌声が響く店内。数名のテーブル客が本を両手に抱いてくつろいでいる。まだカウンター席には誰もいない。

夜も更けてきたころ、鈴が鳴った。

「マスター、あたし初めてなんだけど」
「いらっしゃいませ」
「ここは本がメインなの?」
「はい。硬めの文学から美味しい物語までなんでもございます」
「そうねえ。でもまずはお酒もらおうかしら」
「かしこまりました」
「コート・ロティ。ある?」
「ございます」
マスターは素早くコルクを抜いた。
「失礼ですが、お客様ブルーベリーのようなほのかに甘い匂いがします。素朴なのに個性的でいい香りです」
「あ、これ? よくわかるわねえ。リヨンに調香師の恋人がいてね、あ、恋人だった人がね」
マスターは鴨居羊子『花束のカーニバル』を差し出した。「お好みかどうかわかりませんが」

鈴が鳴った。

「マスター、久しぶり」
「いらっしゃいませ」
「杉浦日向子さん、亡くなったね」
「はい、惜しい人を亡くしました」
「俺、『入浴の女王』大好きだったんだよな。杉浦さんにちなんだ本、選んでくれよ」
「かしこまりました」

マスターは岡本綺堂『半七捕物帳』とウィスキーをソーダで割ったカクテルをテーブルに運んだ。「お好みかどうかわかりませんが」

鈴が鳴った。

「マスター」
「いらっしゃいませ」
「この前ブック・キープした森有正『遥かなノートルダム』あれ、つまらないよ」
「申しわけございません」
「すらすら読めて短くて笑えるのがいいな」
「それでしたら『オクトパシー』なんていかがでしょう?」
「ま、読んでみるか」

マスターは生ビールとA4用紙に印刷された『オクトパシー』をテーブルに運んだ。「お好みかどうかわかりませんが」

「ねえマスター。鴨居羊子って初めてなんだけどいいね」
「ありがとうございます」
「さっきの人、森有正がわからないなんて野暮よねえ。あたし森有正大好きよ。『遥かなノートルダム』懐かしいな」
「お客様に読みごろの本を選ぶのが私の仕事ですから、あわない本を選んだのは私のミスです。でも森有正、地味だけど個性が光ってますよね、ちょうどコート・ロティのように」
「ところで『オクトパシー』って誰の本? 聞いたことないな」
「実は、私が」
「マスターが?」
「ははは」
「あたしも読みたい」
「インターネットのサイト『短編』で読むことができます」

「おーい、この『オクトパシー』つまらないぞ!」
「申しわけございません、すぐにお取り替えします」


#19

英雄

(この作品は削除されました)


#20

宙の縮図

 宙の縮図を広げると、真ん中に五ミリメートルくらいの太陽がある。それを中心に囲む四本の楕円軌道もかかれてあった。太陽から火星までの縮尺図だ。
「ここに地球があったんだよ」
 指の先には何もない。第三惑星軌道のあとだけが未練たらしく残っている。
「こんな線、消しちゃえばいいのに」
「あったことを忘れないために残しているんじゃないか」
「だって、ずっと昔に消滅したんでしょ? 存在しない星の軌道なんて無意味じゃない」
「それでも、大切なんだよ」
「ないほうがずっと良いのに」
 軌道をなぞってみると、縮図の真上に惑星の立体映像が浮かび上がる。
「なに、これ。はじめて見る」
 白と青と緑と、ところどころ茶色が混じった星だ。手を伸ばすと止められた。
「古いからね、映像が乱れるよ」
「これ、そんなに大切?」
「宝物だよ。ご主人が産まれたところ、私が作られたところだ。もうこれしか残ってない」
「ふーん」
 祖母が私に残したのは、この骨董的なアンドロイド一体と古い宙図。アンドロイドは旧式すぎて使えないうえに、新しい主人の命令も聞きはしない。ただ頑固に大昔の宙図を握って離さない。
「わかった。もう捨てるなんて言わないから、部屋の片付け早くしてね。今日中にはここ、退去しなきゃならないんだから」
「これは?」
「そんなに大事なら一緒に持ってきてもいいよ」
 掃除を急かして部屋を出た。緩慢な動作の機械だから、見ていると苛立ってくる。無駄な動作が多すぎる。
 ため息を吐きながら点滅する携帯電話に手を伸ばす。
「ママ? うん、今日中に片付け終わらせるから処分場の手配はよろしくね。私、いまさらガラクタなんて要らないわ」
 電話を切ってから空を仰ぐ。黒い空に小さく瞬くいくつかの光が見えた。
 きっと、あれの処分費用だってバカにならない金額になるのだろう。いくら本人が幼い頃にねだったからといって、そんなことすらきれいに忘れてしまっていた今、特別に欲しいとは思わなかった。
 祖母が抱いていた郷愁なんて私にわかるはずもない。見たこともないものを懐かしいなんて思えない。
 ただ、見ることしかできなかったホログラフィーの星に触れてみたかったな、と少しだけ思った。


#21

バキューム

 蝉もまだ鳴きはじめない早朝の白んだ陽がわずかに差し込む部屋のまんなかで、一人座っていると、いつの間にか蚊が一匹右腕にとまっていた。寂寞とした部屋のいったいどこに潜んでいたのか、その蚊がひどく珍しいように思え、蚊に喰われるあの感触を待ち遠しくさえ感じながら、じっと見ていると、なにか今まで感じたことのない妙に気持ちの良いような感触がして、よくよく目を凝らしてみると、蚊は血を吸うのでなく、卵を産みつけているのだった。血を吸うのはすべて雌の蚊だとどこかで聞いた憶えがあったから、なるほど卵を産むこともあるだろうとは思うのだけれど、自分の腕からうじゃうじゃとボウフラに湧かれてしまっては困ってしまう。などと思っているうちに蚊は音もなく飛び去り、やがて腕の中がだんだんとむず痒くなってきて、左手で掻き毟ってみるも、普通の痒みと違いまるで効果なく、仕方無しに黙ってじっと堪えていると、ぽしゃんと泥を跳ね上げるようにして、皮膚の下から肌色をした豆粒ほどの蛙が出て来た。あっと驚く間もなく、肌色の蛙は次から次へと飛出て来て、手の甲までぴょんぴょん飛び移っていき、ぱくりぱくりと共食いをはじめ、徐々に大きくなっていって、直に手の甲いっぱいの肌色の蟇蛙になった。こちらをじっと睨めつけるので、掴みあげてやろうとすると、掴まえる寸前、ぱくりと人差し指を半ばあたりから奇麗に喰われてしまった。蟇蛙はぷっとばかりに指を吐き出すと、ひょいっと吸い込まれるように指の断面から左腕のなかに入っていき、無数のお玉杓子となって血管のなかを駆け巡っていった。身体中で蛙に鳴かれてしまっては、腕からボウフラに湧かれるより始末に悪い。これは困った。どうしようかと思っているうちに、白血球がお玉杓子に喰らいついていき、お玉杓子との壮絶な喰らい合いがはじまった。
 その勝負の趨勢が決しないうちに、堪え性のない僕の身体はドロドロと崩れていき、べしゃんと床に崩れ落ちたその様子は、まるきりぼっとん便所のなかの糞尿だった。ご丁寧なことに、飛び交う蝿や、放り込まれたトイレットペーパーの芯まであった。糞尿になってしまった自分を嘆く間もなく、床下から物凄いような音がして、ずずっと僕の身体は吸い込まれていき、ボスンという音がすると、すっかりなくなってしまった。身体が奇麗さっぱりなくなってしまったので、ほかにすることがなく、僕は目を閉じることにした。


編集: 短編