第36期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 スペースエイジ 橘内 潤 1000
2 仕事日記 柚森 873
3 渇水の夏 五月決算 1000
4 伊古田 978
5 パーク・アンド・ライド 朝倉海人 995
6 初めての合コン 水島陸 966
7 禁句 刻黯 688
8 明日も来る人 那須斗雲 998
9 1インチの恩 狩馬映太郎 1000
10 愛しさと哀しさ 日向 琳 565
11 没落 闇羊 994
12 祈りの姉弟 朝野十字 1000
13 たぶん星の話 立岡ゆうてん 990
14 風鈴 宇加谷 研一郎 1000
15 真夏の菓実 佐倉 潮 923
16 天体観測 長月夕子 999
17 コットンワンピース qbc 989
18 チャック るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
19 蜥蜴と野苺 とむOK 1000
20 鴎外夢 曠野反次郎 999

#1

スペースエイジ

 バカ宇宙人がまた変なものを拾ってきた。
「ねえねえ、美知ぃ。これ、なんだとおもう?」
「知らないし、知りたくもない。いいから捨ててきなさい。今すぐ」
 どうせまた不発弾とかワープホールとかで、バカ宇宙人が弄くりまわした挙句に爆発したり亜空間に吸い込まれそうになったりするに違いない。五度あることは六度あるに決まっている。
「美知……人類の進歩は失敗の数に比例していると考えたことはないのか!?」
「黙れ、宇宙人」
「がーんっ、差別だ。宇宙人差別、反対!」
「差別が嫌なら家賃でも入れてみろ、居候バカ宇宙人」
 喚きちらすバカ宇宙人をとりあえず蹴っ飛ばす。バカの手から丸いものが畳みに転げ落ちる――バカ宇宙人が湾岸産廃島から拾ってきたのだろうオーパーツだ。
「まぁた、こんなゴミ拾ってきて……なにこれ、スイッチ?」
 スイッチがあれば押してしまう。それは人間として仕方のないことだとおもう。だから、わたしは悪くないんです。あんなことになったのも全部、無銭飲食バカ宇宙人が悪いんです。ええ、もう。

『――続報です。国会議事堂の上空に突如開いたワープホールは、依然として膨張をつづけ――』

「……ねえ、ドロップアウト宇宙人」
「その素敵なニックネーム、まさかボクのことじゃな――げふっ」
 とりあえず殴った。そのままシャツの襟首を捻り上げて、安普請の黄ばんだ壁に叩きつける。
「いい、落ちこぼれ街道まっしぐら宇宙人。あんたは何も拾ってきてないし、あたしも変なスイッチなんて押してない。っていうかスイッチってなに? あたし、なんにも知らない憶えてなぁい」
「はっはっは。美知は物忘れがひどいな――ぐほっ」
 ボディーブローは地獄の苦しみ。
「いいね、わたしもあんたも、なにも知らない。変なスイッチ押した途端に『業務用亜空間式掃除機、起動しました』なんて音声案内のあとにワープホールが開いて議事堂を飲み込もうとしてるなんて、知らない――いいね!」
「ゴミ掃除で国会議事堂を狙うなんて、シャレの効いたオーパー……ぁ、ぅ――」
 顎をかすめるショートアッパーで脳味噌を揺らしてやると、ずるずる倒れこむ墜落系バカ宇宙人。
「これで忘れられたかしら?」
 にっこり微笑むわたしに、うつろな目で頷いたから許してやることにする。

 ワープホールはそれからすぐに消えた。どうやら電池切れだったらしい。被害は……宇宙人排斥派で売ってる若手議員のズラひとつで済んだそうな。


#2

仕事日記

地方公務員になりたかったが、気づけば年が立ち、うけられるものが他になかったという理由で、刑務官にな
った。そんな男だ俺は。年々、飲む薬の量は増える。胃腸薬、血圧降下剤、求心、養命酒(薬か?)。
最後はいいとして、特に胃と血圧が問題だ。娘がしょっちゅう薬を飲む俺を見て
「お父さんの体は薬漬け」と弱冠心配しているらしい。弱冠、というのは俺も仕事が忙しく、あまり対話する
機会がないので、そんなもんではないか、と俺が決めた度合いだ。
徹夜勤務をおえて夕方に出勤したら、職員達が騒然としているではないか。K新聞にうちの刑務所の
元服役囚二人が、刑務官に虐待を受けたと告白しているという。誰のことだいつのことだ何のことだ。
所内に声が渦巻く。
二人はいずれも先月釈放されており、1人は勤めるねじ工場でクビをきられかけて社長を遅い、傷害罪で懲役
3年6ヶ月(3年で釈放)だった男。もう1人は、麻薬常習で懲役1年のダンサー(兼AV男優)の男。
虐待の内容は差し入れの手編みセーターや耳かきを横取りされたことらしい。虐待、と呼ぶのかはともかく
事実なら違法行為だが…。勝手なことを言ってるだけだろう。いやがらせだ。声は続いていた。
やれやれ、である。少なくとも俺ではないが。しかし当分K刑務所の刑務官ってだけで、
風当たりがきついかもな。そんな想像をぼんやりとする。
ねじ工場も、ダンサーも真面目に服役生活をこなし、表立って問題も起こさず(内部でいざこざに
巻き込まれていたかは分からないが)出て行った。
翌日、娘と妻がよってきて「お父さんとこでしょこれ」と新聞を見せる。元服役囚のことより、現役服役囚のことで
手がいっぱいな俺は「そんな話、しないでいい」と不機嫌な顔をみせる。
そう思っていたのに、夢を見た。苦手な上司である看守長が、ねじ工場の着ていた白くいびつなセーターを、
ダンサーの竹の耳かきを、無理やり奪っていくのである。俺は看守長を指差して大笑いし、
奪われた二人は男泣きをする。同期に話すと、能天気なやつだと笑われた。薬漬けなのだが。向いてないと思うこと多いが、転職も難しい昨今である。


#3

渇水の夏

 水を貯めたポリタンクを運んでいると、突然後ろから声がした。
「お父さん何してるの?」
「今夜から断水だろ? 飲み水の確保しておかなきゃ困るだろうが」
 妻一人だけで大量の水を貯め置くのは手間だろうと思い、退社したあと直行で帰ってきたが、まさか娘までこんなに早く帰ってくるとは思ってもいなかった。
「いい心がけね」
「お前こそ今日は早いじゃないか」
「当たり前じゃない。このクソ暑い日にシャワーも浴びないで、次の日、会社に行けるわけないでしょ」
 社会人になっばかりの娘は、職場の付き合いで酔って帰ってくることも多かったが、ここ最近は減ったようだ。
「せっかく帰ってきたんだから少し手伝っていくか?」
 文字通り流れる汗が地に落ちる。
「お母さん孝行する絶好の機会じゃない。一人で頑張りなよ」
 冷たい言葉とポリタンクを残して娘は家の中へと入っていった。
 家族全員が風呂をあがり、残り湯に細い水道の水を貯めると断水の時刻になっていた。どんなに蛇口をひねっても水は一滴も落ちてこない。
 クーラーの効いた居間に戻ると、妻と娘がくつろいでいた。
「お父さん、お疲れ。ビールでも飲む?」
「じゃあ、貰おうか」
 娘にお酌をしてもらい、冷えたビールが胃まで落ちるのを感じるとやっと人心地つく。
 この地域では水不足と言われない夏はない。だから、どの家庭でも飲料水の確保はある程度してあるはずだ。勿論、ビールも飲料に変わりはない。
「毎年水不足って言うけど、今年は特に酷いわね」
「そうだね。下手に飲み会なんて参加してると断水の時間までに帰れないかもしれないじゃない。この時期にお風呂入れないのはキツイでしょ? それ理由に断る人が多いから、うちの職場しばらく飲み会ないんだよ」
 娘が笑う。
「早く帰ってきたってやることないし寝るしかないかな」
「健康的な生活じゃないか。なんなら夜は断水することにすれば、皆が早寝早起の生活に自然となるんじゃないのか」
「やだ、お父さんったら。勘弁してよ」
 私は至って真面目だった。
 節水にもなるし、子供の深夜徘徊などの心配もない、必然的に家族全員揃う夜が増えるかもしれない。案外いいプランじゃないのだろうか、と自分で思った。
「毎年断水になるようなら、お父さんとお母さんがいつでも避難できるように、私が結婚する相手は県外の人にしなくちゃいけないわね」
 全く嬉しくない娘の未来予想図を聞いて、私は咄嗟に反論が出来なかった。


#4

 一つ二つ、三つ四つと、仄かな明かりが灯っては消え、消えては灯る。
 ふらりふらりと頼りなげに舞う光を目で追ってみるも、どこへ行こうとしているのか、何がしたいのか、まるで分からない。それでも随分と長く眺めていると、幻想的な空間にいるはずなのに、なぜか色がはっきりせず、賛美に値する言葉が一つも思い浮かばないことに気づいた。
 人の声を遠くに聞きながら、誰もいない川土手でぼんやり膝を抱えていると、やがてはぐれた光が一つ寄ってきた。何とはなしに手を差し伸べると、不意に、別の手が指先に触れた。
「こんなとこにいたの」
 振り仰ぐと、薄明かりの中、柔和な表情がかろうじて見えた。
「急にいなくなるから、みんな心配してるよ」
「……嘘」
 私の言葉に彼は否定することなく、困ったような笑みを浮かべ、頷いた。
「でも、僕は心配した」
 私の手を優しく握ると、彼は足を投げ出して座った。熱を帯びた腕が触れ、少し冷えた体に気持ちいい。その温もりが流れ込んだのか、途端に胸が熱くなった。
 それをかき消すように、彼に倣って抱えていた足を投げ出すと、履いていたミュールが片方、草の上に転がった。幾度か回転して止まったのを確認すると、どちらからともなく小さく笑いが漏れた。
 その声に反応したのか、光が一つ、視界の端を横切った。
「ごめんね……家の人に、ひどいこと言っちゃって……」
 笑いに紛れて謝ると、彼がこちらを向くのが分かった。でも私は川面の光りばかり見ていた。顔を見たら、また気持ちが高ぶってしまいそうで、そうなると今度は彼を責めてしまいそうで、出来なかった。それが分かっているのか、彼は特に責めようともしなかった。でも逆に責められている気分に陥って、苦しかった。
「お互い様だ。お袋があんなに頑固だなんて、思いもしなかった」
「……許してもらえないよね」
 彼は黙ったまま、正面に向き直る。気休めの言葉もないことが、肯定している何よりの証拠だった。それでも、握られたままの手が唯一否定してくれているように思えて、私は気がつくと強く握りかえしていた。
 遠くで雷鳴が轟くのを聞いた。彼が軽く天を仰いだ。
「帰ろうか」
 頷いて、脱げたミュールに視線を向けると、すぐ横で寄り添うように光りが灯っていた。
 彼の手が力を込めた。
 なぜか、呼吸するようにゆっくりと明滅する光りが、心地よく、そして綺麗に見えた。


#5

パーク・アンド・ライド

 休みの朝から憂鬱にさせるのに十分なベルが響いた。初めは無視を決めこもうとしたものの、ベルは止むどころか徐徐に間隔を短くし音すら大きくなってきた。重たい体を起き上げ玄関扉を開けると若い男がそこにいた。
「実は私、こういうものでして」男は扉が開くなり言い始め、おもむろに名刺を取りだし、私に差し出した。「アル財団 丸川山門」と記されていた。出された名刺に多少の戸惑いを見せると、「どうぞ」と男は促した。断る勇気もなく手に取った。
 セールスだな、いくら世間知らずな私でも男の格好から推測できた。清潔さを感じさせる短い髪、スーツは黒の三釦だった。営業用の笑顔だろうか、終始温和な表情だ。
 私は何を売りつけられようと断る決意を固めていた。社会に上手く溶け込んでいる者に対する反感や嫉妬もあった。
「能亜様にですね、お話したいことがありまして、本日伺いました」
 郵便受けでも覗いたのだろう。男は私の名前を口にした。名前を呼ばれるとすっかり油断をしてしまう。即座に断ろうという意気込みは、いとも簡単に引っ繰り返ってしまった。財団のマニュアルだろうか。
「本日は能亜様にご紹介したいものがあるのです」
 はぁ、と間抜けな返事がつい口を出た。
「島なんです」男は言った。「無人島なんですが、あ、大きさはK区の半分ほどなんですがね。ぜひ、能亜様にと」
 島の押し売りなど初耳だった。島など買えるわけがない。私は断る機会を得て俄然生気が湧いてきた。すると、男は見透かしたように話し始めた。
「代金は小屋の使用料だけでいいんです。家賃より格安ですよ」
 と、パンフレットを広げて見せた。島で栽培した物を財団が買い取る形で収入が得られるとあった。

 私は人間関係に嫌気が差したこの社会からの離脱を決意した。仕事をせずに生活できるのも魅力的だった。
 島は草木が溢れていた。渡された地図を頼りに小屋に向かうと早速財団からの厚味のある封筒があった。今までに見たことのない枚数の札束があった。私は急速な不安に襲われた。この島で金を持って一体何になるんだ、と。店も何もないこの島で意味があるはずない。札束はここではただの紙切れなのだ。
 大急ぎで来た道を戻ったが、船は遥か彼方で、視界から段々と消えていく陰影をただ見送るだけとなった。
 握り締めていた札束に気付いた。微かな繋がりは乗船券にもなりそうにはなかった。が、それを捨てる勇気もなかった。


#6

初めての合コン

迂闊だった。
いままで憐憫たる存在としか思っていなかった山本に、悲運の運命を辿る事が可決されたこの屑に、俺は今刃先を向けられたいるのだ。

この、低俗なアイロニーを放つ糞尿野郎をただ殺すだけならいつだってできる。だが、それで生じる自分への負荷があまりにも理不尽すぎるから手を下さずにいるだけなのだ。

確かに、俺自身が情報不足だった。拭い去れぬ事実だ。俺が生まれ育った田舎には、ナポリタンとミートソースしか無かった。ペペロンチーノを知った高校2年の夏とて、所詮はケチャップの無いナポリタンでしかないと高を括っていたのだ。
所詮は、スパゲッティー。その程度でしかないと。

目の前に持ち運ばれたシチューをぶっかけたスパゲッティーを目にして店員に詰問する俺に、山本は冷笑を浮かべつつこう言い放った。

『あれぇ?それ、なんて言うパスタか知らないのですかぁ?』

中学の恩師が『お前はすぐに顔に出る』と、短気な点を幾度も窘めてくれた。本当に信頼していた人間だから俺はその忠告を今でもきちんと守っている。そのお陰で自分へ有益に事が運んだりもした。しかし、この時は顔も全快に怒りを現していただろう。元々あった山本への殺意の湧出を抑えきれない。おそらくこいつは、俺の真向かいにいるなつきちゃんがいる事を計算に入れた上で、俺を辱めようと目論んでいるんだ。

どこまで腐った野郎なんだ!しかも、パスタってなんだ!畜生!
こいつもなつきちゃんを狙っているのは察していた。

同じ学部のなつきちゃんはどの女達よりも清純だった。『純』という結晶であり、処女を確約しても差し支えは無い。香川県出身というのも、それを裏付けている。

初めてなつきちゃんと出会った時、運命を感じた。小柄で長い黒髪。薄い唇に健康的な肌。ポケモンとジブリが好き。香川県出身のなつきちゃんと、山形県出身の俺。距離的折衷案のこの大学で出会ったというこの奇跡は運命以外の何物でもない。

それを、この温室育ちの都会人ぶった変態野郎が邪魔しやがる。俺たちの幸せを貴様の性欲の為にかき消されてたまるか!
俺が声を荒げる、野蛮な人間となつきが俺を嫌う。そういう算段だったのだろう。

危うく術中に嵌りかけた俺は、今年入学と同時に手に入れた最新型携帯電話で『パスタ』について検索をした。

残念だったな、山本。今の俺は情報戦にも長けているのだよ。


#7

禁句

夜の路地裏の泥と排水の混じった路面に尻を付き、俺は壁にもたれ掛かり、銃を突きつけられている。
頭の悪い俺でも、現代の日本で銃を手に入れるのは、たやすくないって事ぐらいはわかる。
それだけ、銃を突きつけてる男も本気って事だ。
時折、車のライトが俺と対面の男を照らして去っていく。
こちらからは顔は見えないが、大体見当は付く。
商売柄こうなる事は、わかっていたつもりだった。
その見返りにいい思いもしてきた。
そこらの同年代では、手に出来ない金も見てきた。
でも、いきなり銃を向けられる状況は、考えた事もなかった。
なぜだろう、焦りとは裏腹に思考がさえてくる。
いつもは、こう曇った靄が立ち込めているような感じだった。
手足が震えている。
今まで生きてきた中で、幾度も怖い目にはあってきた。
その中で、最高の恐怖といえるだろう。
怖い兄さん達には、殺す気はないのは解った。
その場に応じてこびへつらってれば、なんとかその場はしのげる。
その分、痛い思いはするが・・・
しかし今の相手は、どう見ても素人。
ほら見ろよ。相手も手が震えてるじゃないか。
こういう手合いは、どう対応するべきか困る。
強気で出るか、こびへつらうか、強行するか・・・
「煙草を吸っていいか・・・」
男が無言で銃を突きつけたままでいる事を、俺は肯定と受け止め胸ポケットから煙草を取り出した。
手が震えている。
俺は震える手で何とか煙草をくわえ、火をつける。
つかねぇ。
こんな時に限ってオイル切れかよ。
「あんた・・・火、貸してくれないか」
その言葉が引き金となって、男が銃を撃った。
おいおい、その火じゃねぇよ・・・
思考がさえてても、頭の悪さはかわらねぇようだ・・・


#8

明日も来る人

 天気のいい日だったから、僕らは外のテーブルに移って、もう少しだけ話をすることにした。彼女は腰を下ろすなり、過去の恋愛話をするよう僕にせがんできた。
「前にしたことなかったっけ?」
 そう苦笑いで拒みつつ、僕はしぶしぶといった感じで、大学時代にバイトをしていたレンタルビデオ屋で生まれた恋について、彼女に話すことにした。

「初めてなんですけど……」
 そういってビデオをカウンターに差し出してきたその女性に、早い話、僕は一目惚れをしてしまったのだ。
「レ、レンタル期間は……」
 しどろもどろのシステム説明を終えて、最後にそう口にした僕は、もうほとんど倒れそうなくらいだった。彼女はそんじょそこらにはいないくらいの上玉、失礼、かなりグレードの高い美人だった。

――私と彼女、どっちのほうがいい?
――さあ、どっこいどっこいってとこかな、ちなみに歳は君と同じだよ。

 僕が言うと、彼女はやきもちを焼いたのか、テーブルに肘をついたまま、ぷうとふくれっ面をしてみせた。僕は思わずためいきが出てしまったが、彼女のそんな様子にはもう慣れっこになっていた。

 彼女は毎日店にやってきた。そしてしばらく店内をアチコチと歩き回って、その夜に見るビデオを一本抱えて、僕の待つカウンターにやってくるのだった。
「レンタル期間は?」
「明日で……」
「い、いつも、一泊なんですね」
「ええ、明日じゃないと、返すの忘れちゃうんです」
 意を決して店員と客の関係を踏み越えた僕に、彼女は笑ってそう答えてくれた。面白い子だなあと僕は思った。でも、彼女の言うことはあながち、いや、決して冗談なんかじゃなかったのだ。やがて気軽に会話を交わす、フレンドリーな間柄になった僕らだったが、彼女は自分が少し前に借りたビデオの話になっても、まるで覚えていないという感じで、不思議そうにただ首を傾げるのだった。最初のうちは、「天然系」と言われる子によくある傾向なんだろうと、僕はあまり気にはしないでいた。でもある晩、彼女といっしょにやってきた母親が、あまりに親しげな僕にそっと言った。「娘は事故に遭って以来、記憶は一日しか持たないんですよ……」

――で、どうしたの、その後、彼女とは?

 真剣な眼差しで聞き入っていた彼女が言うので、僕はどうしようかと思ったが、せめてその質問には、真摯に答えることにした。

「今も毎日会ってるよ、こうして…… この話、確かおとといもしたっけね」


#9

1インチの恩

 すねの痛みで目が覚めた。
「ひゃっひゃーっ」
 茶トラのロカが泣いている。
「たまには猫らしくないてみろよ」
 寝ている私に何かをねだる時、彼は容赦なく私をかじる。すねをかじるのは彼だけである。


 彼は猫のくせによく喋る。
 舌足らずでまともに啼けないのに、私の言葉には真剣に返答し続けた。
「今起きるから」
 日本語覚えたらうるさいだろうなあなどと考え、つい布団の中に再び潜りながらエサがないのかなあと想像した途端、買い置きも切らしていたことに気がついた。
「ひゃっひゃっ……」
 彼は日頃の愚痴まで持ち出す。

 彼はある日いきなり現われた。
 野良のクセにどこか上品で私よりよほど身奇麗だった。そのお里を思うと我が家は情けないが、彼の顔に不満は感じられない。その名は、どうせどこかへ行っちまうだろうとふと浮かんだものを付けたのだが、その行く末がやはり気になり、運命を逆さまにしてやった。
 なぜ酔っ払いのタクシーだったのか――国語教師の質問が二十年経っても頭から離れない。小説とはいえ、猫をボロ切れにまでするなんて、
「ひどいよな」
「ひゃー」
 エサか、わかったよ。


 私はPCを起ちあげた。
 無精な私に17インチのロカは壁紙で不満そうだった。その顔をブラウザが覆う。スグクルサイトなんてなかった。
 都合良すぎるよな。そう諦めた途端、近所のショップリストを見つけた。その一つをクリックすると酒屋のページが現れた。今時ホームページかよ。だが名前には見覚えがあった。
 店主の趣味なのか、デザインはどこか浮いている。以前立ち寄った変わった店だった。
 レジ脇にPCを構え、接客中さえモニターを覗き、暇だと客に画像を自慢する。趣味の写真を散々見せられたが、中にたった一枚だけ目を引く写真があった。

 闇夜の焚き火に蝶が舞い乱れる。でもなぜ夜なのか。でも美しかった。でもどこかで見た気もする。蝶は炎に消え、炎から蝶が現れる。羽根が瞬き鱗粉がきらめく。
 炎なのか蝶なのか、私は惹かれた。
「これ壁紙に欲しいんですが、幾らですか?」
「1クリックです」
 痛っ。誰かがクリックした。痛たっ。誰が? クリック? ん
「痛ぇーっ」


 すねの痛みで目が覚めた。
 枕元にロカがいた。勝ち誇った顔で満足そうに私を見ている。彼は足元の何かをくわえ、目の前に差し出した。
「そんな貢物はいらないって言ったじゃないか」
 彼の口から、1インチほどの蛾が落ちた。
「ありがとっ」


#10

愛しさと哀しさ

いつだったか、君が唄った詩があった。


「愛しさと哀しさ」

上から降る幾つもの美が 僕に降りそそぐ
美は風に舞い 僕の肩に辿りつく
とても静かで繊細で でもこわれそうではなくて
そこに 愛しさ というものを感じた
言葉では表せないような そんな愛しさ

そして僕は 目を閉じ
その美を手でそっと包む
やっぱりそれは こわれることなく生きつづけていて
やっぱり僕は さらに 愛しさ を感じて
でも 愛しさ と同時に生まれたものもあった
それは 哀しさ というもの

なぜ 哀しさ が生まれたのか
問いかけてみても 答えはなくて
さらに 哀しさ が僕をおそってきた

 愛しさ
  と
 哀しさ
が同時に生まれた
そんな感情を持てたことを
僕は 幸せに思う


君はさ、その後、私に問いかけてきたよね。

 僕の上から降ってきた美はなんだったと思う?
 なんで愛しさと哀しさが同時に生まれたと思う?

でも私は分からなくて。
 
 なんだったの?
 なんで?

そう聞くと、君はこう答えたよね。

 僕の上から降ってきた美は、桜の花びらだったんだ。
 風に舞って、生きているみたいで、愛しさを感じた。
 でも、風に舞っているということは散っているということだと気づいて、哀しさを感じたんだ・・・

そして、君の穢れのない瞳からは一筋の涙が流れていた。
その涙はあまりにも綺麗で。純粋で。

私は、そんな彼がたまらなく好きだった。


#11

没落

 その気狂いは嘘と真実を同時に話す舌を持っていた。

 ある貧しい農村では、十年に一度水銀を溶かせた山羊の乳を妊婦に飲ませ、生まれた子供を神として奉る風習があった。
 結果として生まれた子供はどこか身体の不自由を負っていて、心臓が右側にある子供、眼球が咽喉の奥にある子供が度々生まれ、それを神の象徴として村民は崇めた。そして、彼らのすべてはサヴァンと同様に名付けられ、代わりのサヴァンが誕生した翌日に火炙りにされて殺された。

 僕が出会ったサヴァンは口蓋の奥にもう一枚小さな舌を持っていた。
 彼によって語られる言葉は、奇妙に重ねられた二枚の舌のせいで異なる意味の言葉が唱和し、その言葉の片方どちらかはある真実であり、もう片方の言葉は虚偽に満ちたものであるという話だった。だが、そのどちらが真実であり、そのどちらが虚偽のものであるかは判別不可能なことであった。

 そんなある日、村でもっとも美しい少女が無残に殺されているのが発見された。
 村民のあいだでの殺人は禁忌とされたこの村では、躍起になって犯人探しを始めた。だが、どうやってもその犯人を発見することはできなかった。
 そこで村民は二枚舌のサヴァンに宣託を頼み、真実の舌と虚偽の舌で語られた二人、その両方を処刑すると決めた。一枚の舌で語られたのは少女の父親、もう一枚の舌で語られたのは少女の母親だった。二人はその翌日に首を切り落とされ、彼らの屍体は犬に食べられることとなった。村は平穏を取り戻した。
 そのようにして、二枚舌のサヴァンは次々と宣託下し、村の指針を選択に貢献した。彼の真言はより確実的な信仰を集め、もはや彼の言葉を疑う者はいなかった。

 やがて、村に次なるサヴァンが生まれた。大脳を持たない子供だった。二枚舌のサヴァンは慣習通りに翌日に火刑に処されることとなった。しかし、子供はサヴァンとしての一切の能力を示すことなく、生まれたその朝に息を引き取った。また、村の掟ではサヴァンの能力を持たない白痴もまた火炙りにするため、二人のサヴァンは同じ棺に並び、棺に火を着けられるのを待った。棺に火を着ける役目は僕が担うことになった。
 そして、僕は二人のサヴァンの白い肌に精油を塗りつける際中、僕は彼の最後の宣託をただ一人耳にして身を戦かせる。彼は不気味に高い声音で笑い、ただ一つの言葉で僕に囁く。「少女を殺したのは私だ。私は神を信じてなどいない」。


#12

祈りの姉弟

 村の横腹を流れる川の川上に向けて雑木林の中の小道を進んでいくと次第に落ち着かないような気持ちが湧いてくる。木々の緑の葉の若干濃くなったような感じ、虫の音の急に小さくなった感じ、どんよりした空気が音や光をくるみこんで湾曲させているような感じがしてくる。それを我慢して歩むうち薄汚れた小さな鳥居が現れる。その薄汚れた様子、小さくて貧相で名の通ったどの神社とも関係のなさそうな、それだけに不安な、そんな鳥居は、大人だと少し前かがみにならないと通り抜けられないほど低い。そして鳥居の手前には粗末な小屋が立っていて、代々の巫女が住んでいた。
 年若い主婦はその小屋の前で立ち止まり、額の汗を拭った。よく晴れた夏の日の午後、強い日差しの下、家から一人で歩いてきて、一時間以上かかった。
 表戸を開けるとすぐに座敷が見えて、布団を敷いて千春が寝ていた。十六歳、黒髪に丸く突き出た愛らしい額、面白そうに光る澄んだ瞳の少女は、大変に長身で、ひどく痩せていた。父は知らず、母を亡くし、村人の善意とも畏怖ともつかぬ曖昧な衝動に頼って暮らしていた。
 枕元に座って見下ろすと、千春は明らかに元気がなかった。
「千春ちゃん」
 女はささやいた。千春は目を覚ましていて、奥の部屋の弟の様子を見てきてくれと頼んだ。見に行くと、弟はぽっちゃりと太った血色の良い頬をしてすやすやと昼寝していた。すぐに戻って、千春にそう伝えた。
「あちし、おとうとが、心配なの。とうっても心配なの。これからどうなるのだろうと考えて考え続けて頭の芯から痺れてくるの」
「弟さんは、元気そうねえ」
 千春は答えなかった。
 女は村の話をした。今年はとても天候が良いので非常な豊作が見込まれること、だから米の価格が下落するだろうこと、国の奨励どおり稲作を止めて野菜を作り始めたが、海外の安い野菜が大量に入ってきて先行きが不安なこと、政府はそれぞれの農家の自己責任であると言っていること、最近夫の機嫌が悪いこと、など、など。
「あの学生さんがここへ来て頼んだら、千春は村に来てくれるかしら」
 女は独り言のようにつぶやいた。千春の返事はなかった。ふとそれはそうだろうという気がした。あの学生はこの村の者じゃないんだ。テレビのスイッチを切るように、まもなくいなくなるんだ。それよりも千春が自分の弟を心配するのは当然だ。
「弟さんは、とても元気よ」
 けれども千春の憂い顔は晴れなかった。


#13

たぶん星の話

愛国心溢れる若者よ、ようこそ。
 キミはわたしと同じく、冥王星宇宙軍対台風星特殊部隊の一員であるはずだ。
 我々人類が地球に生まれて十億年。まさかあのような種族が、あのような惑星が、この太陽系に存在したとは、当時の人類は知らなかったであろう。あれだけ電波を飛ばしていたにも関わらず、知的生命体であるはずの彼らのシカトっぷりには十億年前の人類が可愛そうに思えてくる。この手紙も同じようなものかもしれない。
 わたしはこの星から亡命する。なにもこの星がイヤになったわけじゃない。この星の居心地のよさに代わるものを見つけたのだ。
 これから台風軍と戦争をする君に一つだけ言っておく。彼らは我々人類と同じではない。わかりあえない種族である。姿が違うだけで、文化も言語も考え方もまったく同じであるにも関わらず、我々が戦争を続けるのはそこにある。
 これはわたしに残されたたった一つの愛国心と言えるものだ。霊長類ヒト科というものが、この宇宙から消滅してしまうことを恐れている。
 わたしは、新しい可能性を求めて旅立つ。キミだけは、キミだけは霊長類ヒト科を守り続けていてほしい。


親愛なるお兄様へ。
 お兄様は、冥王星との戦争から帰ってきた所だと思います。そんな時に、このような手紙を読むのは辛いことだと思います。
 わたし達ニャンニャンがこの星に生まれて十億年。まさかあのような種族が、太陽などというものが存在していたとは、ご先祖様は思っても見なかったでしょうね。あれだけ電波を飛ばしていたにも関わらず、知的生命体であるはずのあの方々の気づかなさには、すこし残念であると思うとともに、これまでお互い気づかなくてよかったとも思います。
 どこか別の星にいこうと思います。お兄様、お父様、お母様や、この星がキライになったわけではありません。それよりも大切なものを見つけてしまったのです。
お兄様。このおばかな妹を許してください。そして、わたし達とあの方々はわかりあえない、と言うことを大切に思ってください。これは、ニャンニャンをニャンニャンとして守り続けるためには必要なことなのです。
 私がこの手紙を残すのも、お兄様が、あの方々と戦い続けてほしいという、愛国心からなのです。
 それでは、お兄様。ごきげんよう。

追伸 人類にもわたしたちと同じく女性軍人がいますが、絶対に仲良くならないでください。


#14

風鈴

 星をみている。無数の光の点から星座をみつけたギリシア人の想像力にならってみるけれど、俺には大熊も獅子も見えてこない。ならばジプシーにならって星に名前をつけてみることにして知人友人同僚上司片っ端から夜空に散りばめていく。この星空は俺たちのもの。熱中してくると小腹がへってきて、台所でたっぷりのモッツァレラチーズをのせたトーストを焼いた。それを食べながらまた星を見上げる。今みえている星の光は数十年、数百年かけてやっと地球に届くらしいから、俺たちの名がついた星のなかには今は消えてなくなっているものもあるかもしれない。この世には存在しないのにその光だけがこうして何光年も先まで届き、そこで一人暮らしの男から「俺たちの星だ」なんて言われても平気で受け入れてくれるんだから星ってやつは。恒星は太陽と同じくらい熱い星らしい。宇宙旅行が自由になったら名づけた星に行ってみたいけれど近づいてみれば恒星で、俺自身が燃えてしまうかもしれない。
 腹が満足すると今度は酒が飲みたくなってカンパリをソーダとグレープフルーツジュースで割った。ベランダに戻るといつのまにか夜が明けようとしている。
 そのまま空を眺めていると昼になって、今ごろは昼の星が姿を現しているだろうと思うけれども俺の目には映らない。ジプシーになら見えるだろうか。セミが鳴きだして、それからはセミの声を聞いていたが、いつのまにか瞼が重くなった。睡眠薬入りのジャスミンティーを飲んで過ごす昼下がりみたいな気分だ。
 明後日に建築士の試験がある。友人から頑張れと電話があったけれど、頑張れと言われると頑張れない。焦りや不安や期待や希望が混じりあったけだるさの中、目覚めたら夜。
 かおりに逢いたいなあ。かおりに逢いたい。でもかおりがいる場所は俺の住む部屋からは何光年も離れていて、きっとそこは恒星かもしれなくて、俺は燃えてしまうかもしれない。それでもかおりに逢いたい。
 今夜は星がみえない。去年の線香花火があったのを思い出して取りにいく。ちりちりと散る火花の光が恒星に届かないのはわかっている。
 気持ちのいい夜風がふうっと部屋を通りすぎた。風鈴がちりんと鳴った。風鈴は鳴りやまない。俺は目を閉じて風鈴の音をきいた。汗がすっとひいて、身体が軽くなっていくのがわかる。目をとじた。かおりが側にいるような気がしたが眠ってしまって、翌朝部屋に風鈴などないことに気がついた。




#15

真夏の菓実

 
「あたしはいつか溶けてなくなっちゃうの」とチュパチャップスは言った。
「俺だっていつか齧り尽くされてなくなっちゃうんだぜ」とキットカットも言った。
「そっか、あんたも」チュパチャップスは少し同情したように言った。「なんでなんだろね、あたしたち」
「そりゃ決まってるさ」訳知り顔でまたキットカットが言った。
「どう決まってるのさ?」チュパチャップスは真剣に尋ねた。
「形あるものはいつかなくなるものさ。一切は空である」そうキットカットは嘯いた。
「何よ、それ? 聖書?」
「君こそなんでそんなことが気になるのだい? 全く仕方ないことだぜ」キットカットが反対に尋ねた。
「そりゃ分かってるわよ。でもあたしたちこんな風に色鮮やかに着飾ってて、なんでなくなっちゃうんだろうって思うと、おかしな気分になるから」
「いつかなくなるからこそ着飾るのさ」
「そう…かもしれないけどさ」
「今を生きる」
「それ知ってる! 映画でしょ」
「サァ」
「ねえ、寂しくなった時どうしてる?」
「バスに乗るよ」
「バス?」
「ああ、市内じゃ乗り放題で500円。一日グルグル回っていりゃ寂しいことも忘れてそのうち眠くなる」
「バスは苦手。なんだか怖いの。どっかへ連れてかれそうで」
「じゃあ観覧車にでも乗ればいいんじゃないか」キットカットは背中をぼりぼり掻いて言った。
「とにかく何かに乗るべしってことね」チュパチャップスは笑った。「具体的なアドヴァイスはとても参考になるわ」
「どういたしまして」
「ねえもういっこだけ訊いてもいい?」
「もういっこで百問目だよ」
「そんな莫迦な! (アハハ)ええと、生まれ変わったら何かやりたいこととか、なりたいものって、ある?」
「…ウーン。生まれ変わりなんてあんまり信じちゃいないんだが、やりたいことといえば、百年先に生まれてロケットに乗りたいな。きっと百年後の連中は当たり前に乗ってる筈だからね。頭が悪い俺でも乗れると思うんだ」
「そうか。素敵ね」
「君は?」
「それがあたし、考えたことまるでなかったのよ。今、初めてフトそんなことを考えたから。だから訊いてみたくなったのよ」
「そうか」
「こんど観覧車に乗る時に考えるようにするわ」
「いい考えだ」
「じゃあ、さようなら」
「ああ、元気で」
 
 
 


#16

天体観測

 終電なのに電車は混んでいた。皆よく働く。日付はもう、明日だというのに。
 改札を抜けてそれぞれの方向へ、帰宅の人々は街に吸い込まれていく。ぼんやりとその後姿達を見送りながら、私も家路に向かう。見上げれば満月が、この春に引っ越した新築のマンションをピカリと光らせて、完璧な直線を縁取っている。
 705の部屋に鍵をさし込む。ところが鍵は何の抵抗もしない。いくらなんでも鍵が抵抗しないのはよくない。私は溜息をつく。また鍵を掛け忘れてるんだ。
 ドアを開けると、ベランダからの風が擦り抜けていった。玄関にはどうやったらこんな風に脱げるのか、スニーカーが好き勝手な方向に転がっている。よけるようにヒールを脱いで、下駄箱にしまう。その中は半分がスニーカーで半分がヒール。ややヒールが劣勢。そうだ、と私は思う。いつの間にか茶碗が増え、コップが増え、歯ブラシが増え、私が仕事へ行く度に見知らぬものが増えていき、この部屋を侵食していく。部屋だけではない。いろんなものがだ。そしてそれに私が含まれるのだからたちが悪い。
 ベランダへの窓のカーテンがひらひらと風に揺れていて、赤いTシャツが見える。
「あ!おかえり!」
場違いに大きな声がカーテンの隙間から聞こえた。
「見て見てこれ!美紀のクローゼットの中こんなの入ってたよ」
自慢げにさすって見せたのは天体望遠鏡だった。また人の荷物を勝手に漁ったのか。という言葉をすんでで飲み込む。小言は無能な部下だけで十分。
「望遠鏡ってプラネタリウムみたく星がいっぱい見えるのかと思ったらさ、全然見えないのなあ。東京が明るいからかなあ。でもさ、月はすごいぜ。表面ぼこぼこ!しかもさ、俺びっくりしちゃったんだけど、月ってすごい速さで動いてんだなあ。ちょっと目を離すとすぐ画面から消えちゃうんだよね。あ、また動いちゃった」
そんなこと知ってる。だってそれ、私の望遠鏡だもん。そんなこと知ってる。だって私、君より7年も長く生きてるんだもん。君がびっくりするくらい世の中が速く動いている事だって知ってる。
ねえ、それとも22歳と29歳では時間の速さも違うのかしら。
望遠鏡でものぞいてみなけりゃ、それが解らないほど遠いのかしら。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出す。ちょっと考えて、それを思いきり上下にシェイクする。相変わらず、すごいすごいと言いながら望遠鏡をのぞく背中に声をかける。
「ねえ、ビール飲む?」

 


#17

コットンワンピース

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#18

チャック

 脇腹を刺された。
 脇腹を刺してやったはずなのに。
 ビルの屋上で目が覚める。
 目に映ったのは青い空が全て。
 とてもうるさいな、と思う。どうしてだろう、青い空には白い雲さえ見えないのに。ジェット機が飛んで行く。無音。あたしは耳に手をやった。つるつるとした感触が返ってくる。ヘッドフォンがあたしの耳に突っ込まれていた。うるさいわけだった。ジェット機の音が聞こえないわけだった。大音量で流れてくるのは古いロックだった。まだブルースとかロカビリーとかとの区別が明確では無い頃の。ゴー、ゴー。ゴージョニゴー、ゴー。
 まさかジョニー・B・グッドとは。
 あたしはイヤホンを外す。
 一体誰がこんなものを。
「やあ、こんにちは」
 隣りに男が居た。
「まさかジョニー・B・グッドとはね」
「このウォークマン、あんたの?」
「違うよ」
「そう」
「痛そうだね」
 男はあたしの脇腹を指差した。
「血が沢山出ているよ」
「そうね。出てる」
 あたしは脇腹に手をやった。ナイフはウエストを深く貫いていた。痛い。
「あなたは楽しそうだわ」
「俺かい?」
「ええ。キスマークが、ついているもの」
「キスマーク? 俺にかい?」
「ええ」
「何処?」
「ほっぺたに」
「キスマークか」
 男は頬に手をやる。
「キスをしたはずだったんだがな。キスをした覚えはあるが、された覚えは無いんだが」
 頭上ではジェット機が再び現れ、通り過ぎて行く。
 無音。
 あたしは達は一緒にビルを降りた。
 あたしは一度だけ後を振り向いた。ビルは灰色の、何の特徴もない雑居ビルだった。
 男とはおでん屋の前で別れた。
 街はそういう時間帯らしく、大通りに出ても誰も居なかった。無音のまま、信号機のライトだけが移り変わっていった。
 街には様々なものがあった。カラスが空を飛んでいた。信号の押しボタンをあたしは押す。途端に沢山の人々が何処からか現れて、あたしと共に信号待ちをする。
 人々と共に、するすると街中に鉄格子が伸びていった。街には様々なものがある。そしてそれにも関わらず、鉄格子もある。
 あたしは腰に手をやった。ナイフだと思っていたものは、プラスチックの定規だった。
 あたしは血まみれのそれを鉄格子にくっつけた。鉄格子の幅は60センチ。良かった。大丈夫だ。あたしはウエストが58センチだから、ダイエットしたお陰で58センチだから、この向こう側へ行ける。
 鉄格子の向こう側で、信号がもうすぐ青へと変わる。


#19

蜥蜴と野苺

 草いきれの土手を越えて市境の川に伸びる大きな橋の、橋脚の中程に何故だか人一人横になれるほどの細い段がしつらえてある。土手の下に並ぶ小さな住宅からも、橋の上の車道からも死角になったその隙間に、小柄な若い女が眠っている。
 日差しが強く照りつける土手では、黒目ばかりの小さな目をした胴の長い男がたった一人歩いている。眠る女に黒目をとめた男は、丈の高い草の生えた滑る斜面を革靴で器用に降りると、女の傍にするりと潜りこむ。
 そこは日陰になっていて思いのほか暑くない。あばたの残る女の丸い頬には薄く汗が浮かんでいて、濃い紅をひいた唇が淡い呼吸をしている。
 見知らぬ細長い気配に目を覚ました女は半身を上げる。傍らに跪く灰色の男の、左手に薬指と小指の失われているのを見た女は、髭の浮いた頬を両手で引き寄せ、遠い日の誰かとの約束を思い出すようにくちづける。
 男は色褪せた黒いシャツも着たままで、大きすぎるワンピースの下に、温度の無い乾いた腕を差しこむ。若い肌をなぞるように愛撫するうちに湿って息づき始めた女の中心で、男は警戒する獣のように浅く深く分身を出入りさせる。その寂しき情欲が果てる時、女が赤い唇から、ふっくらと瑞々しい息を吐く。
 土手の向こうから湿った風が草の匂いを運んで来て、男は自分の胸の下で呼吸する女の肩の骨が、意外に幼く華奢であることに気づく。
 女は男の腰の辺りをまさぐると、三三口径のオートマチックを抜き取る。
「あんたの弟分さ…」
「ああ。俺も時間の問題かもな」
 隙間にひとつだけ背を伸ばした雑草が、肌寄せ横たわる二人の頭上で揺れる。女は遠く鳥のぎちぎちと叫ぶのを聴いたかもしれない。
「あと何発残ってるの」
「二発」
 女はふざけて銃を振り回す。暴れる髪の間からやけに濃い化粧の臭いがして、よく見ると白く塗られた幼い頬の下が青痣に膨らんでいる。
 男は銃を取り返し、その細身が飲み込まれるほどに深く、シリンダーを小さな黒目で覗き込む。やがてその筒先を翻して女の赤い唇に当て、一緒にいくか、とつぶやく。
 色の薄い瞳が一瞬だけ濡れて彩られる。だが女は首を振り、甘苦い凶器を男の右手ごと両の掌で包み下ろす。
 その時西に大きく傾いた陽が二人に差しかかる。女は背の下に敷いていた若草色の薄い上着を取って、自分と男にそれを被せる。
 夕空を裂いて舞い踊る大きな嘴も禍々しい鉤爪も、今この時だけはみどりの蔭の二人を見失う。


#20

鴎外夢

 僕は手書きのノートを読んでいた。僕の部屋でない、どこかの見知らぬ書斎だ。それはどこぞの新聞記者が森鴎外の秘められた醜聞を探ろうと息子の森於莵に取材した手記で、まるでノートを透かして取材の現場が見えてくるような生き生きとした調子のよい文で綴られていた。
於莵はちょっと日本人離れした透けるような白い顔の美男子で、結核を患い離れに隔離されていた。記者は実は相当に醜聞の核心に迫っていて、あとは裏付けを取るばかりで、於莵に対し、随分と高飛車に接していた。
「私は貴方のこの肌の白さが病気のためばかりでないその所以を知っているのです」
 記者はそういって、於莵ににじり寄った。於莵は身体を震わせ俯いて何も言えずにいた。
「あくまでも黙っているのだというのなら、何もかも言って差し上げましょう。貴方が母御の腹に宿ったその夜の、母御の秘所に突き入れられていた男根は鴎外氏のそれでなく、白く柔らかなもので、鴎外氏のそれは、その持ち主の身体に突き入れられていたのだということを」
「ああ、どうしてそれを。そのことをご存知なのですか。呪われた我が家の秘密を」
「なに、鴎外氏が医術を外国で学んできたように、探偵術を外国で学んできたまでのことですよ」
「それならば、私の呪われた血がもたらす欲望もご承知のはずだ。ああ、どうか後生ですから、余命幾許も無い私の為に、忌々しき快楽を私にお与えくださいませんか」
「よろしいでしょう。ただ二人だけでは詰まらない。あなたが宿った夜の閨と同じよう女子を一人用意して頂きましょうか」
「なんとも残酷な言い様。この家に女子といえば私の幼い妹しかおりません。しかし、いいでしょう毒喰わば皿まで」
 於莵は母屋から妹の茉莉を呼んでくると、自分の床に寝かした。何もわからぬ妹をあやしながら着物を脱がせ、片手で口を塞ぐと、幼い秘所に熱り立った陰茎を無理矢理捻じ込んだ。それを満足げに見下ろすと記者は、於莵の着物を捲って、自分の陰茎を青白いその尻に突き入れた。
 そこで僕は慌ててノートを伏せた。ノートの表には夏目金之助と署名されていた。僕は自分の下半身を見た。僕のペニスはいつのまにか痛いほど勃起していて、ズボンの中に収まっていながら、女性の膣壁とはまた違う、纏りつく粘膜の感触を感じていた。チャックを開けると、ペニスが勢いよく飛び出してきた。それは見慣れた自分のものでなく、熱く脈打った夏目漱石のペニスだった。


編集: 短編