# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 野次馬 | 桑袋弾次 | 1000 |
2 | 親愛なる友へ | 千葉マキ | 949 |
3 | キス | 黒木りえ | 200 |
4 | 道路局役人の役得 | ゴーヤベイベー | 601 |
5 | 極彩色の祭祀 | 岩舘野良猫 | 908 |
6 | 俺の幸せ | 乙津 遥 | 879 |
7 | 回転式の | 夕生 | 639 |
8 | 龍に逢いたい | 沙海 素 | 999 |
9 | 旅路 | さいたま わたる | 874 |
10 | 三丁目のペロちゃん | 水島陸 | 766 |
11 | 溺れる者 | あきのこ | 1000 |
12 | 精神感応(テレパス)なんて! | 朔十子 | 462 |
13 | 赤いドレスの女 | 朝野十字 | 1000 |
14 | 魔王 | 神崎 隼 | 916 |
15 | 水銀灯 | asmy | 892 |
16 | 水無月怪獣顛末記 | とむOK | 1000 |
17 | 逃げる論考 | 那須斗雲 | 1000 |
18 | R | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 896 |
19 | きりん草 | 佐倉 潮 | 967 |
20 | 夜話 | 真央りりこ | 1000 |
21 | 瞬く、刹那知る者 | 八海宵一 | 1000 |
22 | 恋愛欠乏症 | qbc | 996 |
23 | 彼女を笑わせろ! | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
24 | ラスト | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
25 | てのひら | 西直 | 1000 |
26 | 隻闇 | くわず | 1000 |
27 | 点滴 | 海坂他人 | 990 |
28 | 私のカードバトル | (あ) | 1000 |
29 | ばら色の頬 | 曠野反次郎 | 999 |
消防士は、かたい防護服の中で、炎にせがまれぼっきする。
はなれて野次馬は、静けさの中にいる。つめたい森の奥、あるいは大気圏外にしかない静けさに、男の在り処を忘れる。
少女たちは、かわいている。
どんなに水を飲んでもかわくから、少女たちは火打ち石をつかった。むかつく授業を抜け出し、ステーションビルディングの、とくべつ好きというわけではないけどいつもうろうろしている少女向けの(と大人たちがしかめ面して会議で決めた)店で、4人の少女は石を打った。
試着室のカーテンをつたい、まもなく火は天井にとどいた。少女向けの洋服は、ぺらんぺらんとよく燃えた。炎にせがまれ、少女たちのからだは奥のほうから潤った。ずいぶん気持ちがさっぱりして、風呂あがりみたいに寝そべった。
いくらサイレンを鳴らしても、スピーカーでがなっても、緊急車両は前に進めない。次の市長の任期に先送りされた駅前通りの再開発が、違法駐車が、放置自転車が、需要を見誤ったタクシーとバスの供給が、緊急車両をはばんだ。
すり抜けて、野次馬は現場に着いた。外付けの非常階段を駆け上がり、防火扉を開けると、押し寄せてきたのは音、崩れる音、はぜる音、うなる音、なにより野次馬自身の中から湧き上がる轟音。はばむものなく音にせがまれ、男はもはや野次馬ではない。
まっすぐ炎の中に進み、倒れている4人の女をまとめて抱き上げた。ひとりを胸に抱き、ひとりを背負い、両腕にふたりぶら下げた。潤った女の肌は、ぴったりと男のからだに吸いついた。
防火扉の外に出て、5人は5月の新しい空気を吸った。みんなこんがり焼けていた。かきむしると、皮膚がべろんとむけた。むいた後に、生まれたての白い肌があらわれた。少女たちは面白そうに互いの皮膚をむいた。
「よう、おぢさんのもむいてあげようか」
とひとり目の女が言った。
「やだ、おぢさん、ギンギンにたってるわ」
とふたり目の女が言った。
「かわいそうなおぢさん、いたそう」
と3人目の女が言った。
「じゃあまず、ここからむこうね」
4人目の女が男のジッパーを下げ、包皮をむくと、ほかの3人がきゃっと笑った。
非常階段の踊り場で、男は色も形も異なる4つの肉マンを突き刺した。強くと言われれば強く、やさしくと言われればやさしく、はやくと言われればはやく、もっとと言われればもっとたくさん、せがまれるままに炎をくぐり、野次馬はそういう男になった。
私の名前は優子、趣味は読書と料理。
幼い頃から母は良く言っていた。
「優子はね、良く寝る子でね、あんまりミルク飲んでくれなくて苦労したのよ。でもこんなに大きく育ってくれて神様に感謝だわ」
母は今年の夏、癌でこの世を去った。
私には兄弟も父親もいない。
母と私だけの生活は寂しさなんてなく、暖かい母の優しさに包まれていて幸せだった。
素朴な家庭料理、母の歌声、笑った顔、柔らかな手、いつものエプロン、母の寝顔、何もかもが私にとって全てだった。
悲しい出来事と共に眠れない日々が続き、睡眠不足のため仕事に影響が出てきて退職した。
母の死から半年が経ち、何も喉に通らず私は痩せていた。
ある日、昔からの友人である亜紀から電話があった。
「最近、外で見かけないけど大丈夫?」
亜紀は私の幼なじみで八百屋の娘だ。
母が死んでから買い物にも遊びにも行かなくなった。
返事のない私に「今からそっちに行くから」と言う。
私は「ごめん、ほっといて」と言った。
寂しいのに一人になるのが恐いのに、助けを求めることが出来ない私は自分に苛立ちを感じていた。
一ヶ月後、亜紀が突然、家に来た。
骨と皮しかない優子を見て亜紀は泣き、強く抱き締めた。
「こんなに痩せちゃってどうしたの、どうして何でも話してくれなかったの、優子?」
亜紀の問いに私はいつの間にか泣き、
「ごめんなさい、お母さん」と小さく囁いた。
とても母に似ていた。
小さい頃に心配されて強く抱き締められたことがあった。
あの時の母に似ていた。
亜紀は「もう大丈夫よ、優子には私がついてるからね、一緒だからね」
その暖かい言葉に私は感動していた。
数日後、弱った私の心を治すために亜紀に連れられ精神科へ行った。
「もうこれで大丈夫よ、ゆっくり歩いていこうね、優子」と優しく亜紀は言う。
その言葉に優子は母親が生まれ変わったように思え、涙を流した。
「お母さん、ずっと側にいてね、優子から離れないでね」
亜紀は、その問いに「うん」と頷いた。
優子が求める強い愛を理解してあげよう、今は母親の代わりになろう、亜紀は優子を支えていこうと決意した。
優子の心が晴れますように、いつか私のことを友達だと気付いてくれますように。
亜紀は願った。
久々にスヤスヤと無邪気な子供のように眠る優子。
その横で亜紀は優子の頭を撫でた。
まりえは女の子でしょう、と咲は言う。だのにどうして女の子にキスするの。
そんなの、好きだからキスしたいだけよと唇をつきだすしぐさが幼い。口紅をまだきっとぬったことのないまりえの唇は、そんなものいらないくらいにふっくりと濡れて、きっと男の子がキスしたくなる唇だと咲は思う、だのにキスされるよりキスしたがるまりえに、女の子のくせに女の子が好きなのってヘンタイなんだよと腕のなかで言う。キスを待ちながら。
あれでもない、これでもない・・・・・・
部屋中に洋服を広げていると、ニヤニヤしながら母が入ってきた。
あなた理想が高すぎるのよ、妥協してさっさと結婚しちゃいなさい、といつも通りに言われるだろうと思っていた。
すると母はポケットから小さなリモコンを取り出した。
「あなた、今日デートでしょ。いいものあげるから、がんばんなさい。」
信号を自由に操作出来るリモコンだと言う。こんな物、一体何に使えと言うのか。そもそも、何故こんな物を持っているのか。
「これはね、昔つき合ってた人から盗んだの。」
将来有望視されていたお役人に振られた腹いせにやったのだとか。日本に一つしかない物だと自慢していた物だったそうだ。
さすが私の母親。結構ドロドロした恋愛をしていたのね。
リモコンの使い道は全く思いつかないが、母から勇気をもらった気がした。
今日は彼の車でドライブ。
会話が弾み、夜も更けてきて、ムードが盛り上がっていった。
赤信号で停車。
彼がキスを求めてきた。
もちろん私も求めに応じる。
この瞬間が永遠に続けばいいのに・・・・・・
私はリモコンの事を思いだした。
ボタンを押して、信号機を赤のままに。
私たちはキスを続けた。長い長いキスだった。
唇を離してお互いに見つめ合う。
次の行き先は決まっている。
私は青信号のボタンを押した。
しかし、信号は赤のまま。リモコンが壊れてしまったのだろうか。
対向車線をふと見ると、黒塗りの車が激しく上下に揺れていた。
廣野。夏至の夜明け。
さてもマツリの始まりだ。土と岩に覆われるばかりの無彩色の廣野にも、十年に一度、この日ばかりは鮮やかな色が蘇る。
見よ見よ。
金糸銀紐に飾られて、婚礼衣装に身を包んだ嫁たちの雌鬼馬、婿たちの牡鬼馬が整然と並びくる。この日の為にだけ用意された衣装は、高価な染料で染め上げた上等な布地を惜しげもなく使い、赤、橙、黄、青、緑、藍、紫、嫁たちのひとりひとり、婿たちのひとりひとりを、色とりどりに包みこむ。嫁たちは、婿たちは、騎乗のまま列をなして向き合う。
「ご祖先よ。廣野の生霊よ。最上界の神々よ。此度の婚礼、我等が民に子等をもたらす豊穣なるマツリを祝福せん。此度の婚礼に異議のありし者はおらんか」 「異議なし異議なし。我等鬼馬騎りの民、我等の子等と鬼馬の子等の為、十年に一度の婚礼の儀を執り行わん」
土色の衣に身を包み、やせ細った廣野の生霊の長老の問いに、嫁たちの声、婿たちの声が重なる。唱和が終わるか終わらないかのうちに、嫁たちの雌鬼馬、婿たちの牡鬼馬は、緩められた手綱に身を任せ、獰猛に嘶きながら対面する異性へと突進する。この日ばかりは枷を外され、鋭利な牙をむき出しにして、生殖の相手を組み伏せようとし、競合する同性と激しく争う。振り落とされた嫁たちも婿たちも、地に這い土煙にまみれ鬼馬たちに蹴飛ばされながらも、己が望む相手を求めて遮二無二奔走する。嫁たちも、婿たちも、嫁たちの雌鬼馬も、婿たちの牡鬼馬も、当然のことながら無事で済むはずもなく、日が落ち婚礼の儀が終わる頃には、大半の者が絶命している。残る生者も、大半は虫の息といった有様で、日が落ちるとともにどこからともなく現れた土色の廣野の生霊たちに手当を受け介抱される。
この廣野、ただ「生きる」という行為が最も難しい。汝等の勝ちだ。生き残った汝等の子等は、強い子等であろう。
十月十日たち、子等産まれる。嫁たちも、婿たちも、嫁たちの雌鬼馬も、婿たちの牡鬼馬も、子宮を焼き生殖器を切る。以降は廣野の生霊として、子等を育みつつ、生きる。 多くの子等を引き連れて廣野の生霊たちが行く。行き先は知れず。確かなことはただ一つ。
彼等の子等は鬼馬騎り。
彼女を好きにならなければ、こんな深い悲しみは味わわずにすんだだろうか。
あの日彼女を離していなければ彼女を失うこともなかっただろう。
俺はただただ、変わり果てた彼女の前で涙を流す。
周りには俺を同情の目で見つめる人達。やめてくれよ。
そんな目で見るな。
彼女はもう居ないけど俺達は幸せだったんだ。
最近世間を賑わせている“通り魔”・・・・・・・・アイツが犯人だ。
誰もがそう思っている。警察も、マスコミも俺も。
何故なら犯行が毎回同じなのだ。
今までの10人の被害者の女性と同じように胸元をバサリと切られているのだ。
彼女の白く美しかった肌は血が固まってこびりついて、茶ぐろくなっていた。
彼女のお気に入りだった白のキャミソールも血の色に染まり、白い部分はほとんどなかった。
ただ立ち尽くす俺に在りし日の彼女が笑いかけている。
「好きよ。」
と笑いかけている。
泣き崩れる俺を警察官がひっぱり起こす。
「さぁ、もう行きましょう。気は済みましたか?」
と・・・・・・
首を横に降ると困った顔をした。
彼女を好きにならなければこんなにも辛い思いはしなくてすんだだろうか?
全てを知らずにいたら憎むこともなく‘幸せ’でいられただろうか。
彼女が全て悪いんだ。
「さぁ、立って。」
警察官が俺を引き上げる。先程とは比べものにならないほどの力で。
彼女が悪い・・・・・・彼女だけじゃない俺を裏切った全ての女・・・・・・憎い…許さない…
許せないから、殺したんだ。一番好きだった真っ白な陽に焼けていない胸を切り裂いてやったのだ。
手首にはガシャリと揺れる銀色をした冷たい手錠。
‘彼女’には青いビニールシートがかけられて俺達は本当に最後のお別れをした。
君が俺を裏切らなければ、こんなことにはならなかったんだよ。
次に俺を好きだという女が現れたら、真っ先に閉じ込めようと思う。
俺がこれから入るであろう監獄に似た狭い部屋に閉じ込めよう。そして離さなければいいんだ。身ぐるみも全部剥いで、辱めて、他の男のところなんていけないように。
ゾクゾクする・・・・・・
そう考えてうっすらと笑みを浮かべる俺に誰かが、
「人殺し」
と叫んだ・・・・・。
ぐるぐるとまわる。ひたすらまわる。疲れてきても、汗が吹き出ていても、喉をかきむしりたくなる衝動に駆られても、それでもまわる。たまに緩急をつけてみたり、競ってみたりするけれど、それでもぐるぐるまわるという事に変わりはない。何の為かはわからない。もう目的なんて忘れてしまった。まわりはじめた理由すら忘れてしまった。思い出したところで、それになんの意義がある。どうせ大したことではない。なんにでも理由があると決め付けるのは間違っているのだ。脚が女のものとは思えないほど逞しくなっても、皆に敬遠されても、私はまわりつづける。そんな私を、足の細いクラスメイト嗤う。『ナニアレ、ミジメェ』。それでもまわる。決められた距離を決められた速さでまわる。まわれなかったら、まわる為にまたまわる。何かが私を駆り立てる。モットマワレ、ハヤクマワレ。
狐のような目の、ゴリラみたいな体系の教師が言う。「よし、昨日よりまたタイムが伸びてるぞ。来週の新人戦は表彰状圏内だな。ストレッチしたらグランドあと二週ダウンで走れ。それで今日は終わりにしよう」
ああうですか。気のない返事をすると狐とゴリラのハーフのような教師は何故喜ばないのかと、訝しむ瞳で私は見つめる。そんなこと私には関係ない。ただ、なにも考えないで何者にもならずに、ただまわる。三十五度の灼熱の太陽のなか、呼吸が荒くなり喉と喉がくっつく錯覚に陥り、目の前の景色がだんだんと色を失い始める。嗚呼もう死ぬかもしれないと思う。そんな瞬間だけが私を生かす。
「はぁ、龍に逢いてぇなぁ...」
アキオは格子のはまった窓から庭を眺めて、この二、三日ろくにものも喰わず、ずっとそうしているのでした。
「どうしたものかね?アキオちゃん。なんで龍なんかに会いたいかね?」
祖母がしゃがれた声で聞きました。
「だって、龍ってカッコいいじゃぁないかぁ!おらを背中に乗せて飛んでくれねぇかなぁ...」
「そんなこと言ったって龍なんていねぇだよ。機織り部屋からおっかさん呼んできいや。飯にすんべ。」
「おら、飯はいらねぇ。」
「はぁ?」
いつも‘飯’と聞いたら、だれより先にすっ飛んで来るアキオから、最も遠いと思われる言葉に祖母は思わず耳を疑いました。
「きっとおらが重いから、龍は来てくんねぇんだべ。おらぁ痩せて軽くなるまで飯をくわねぇぞ!」
アキオは格子を握り締めて叫び、今度は祖母が深い溜め息をつきました。
「なぁ、なぁ、ギョクよ。知ってるかい?」
酒の神さまは、そこに無造作に横たわっている龍に向かって言いました。
「なんです?」
ギョクと呼ばれた龍はぬっと首を持ち上げて酒の神さまの方を向きました。
「下界にゃあ、お前さんに逢いたくて、三日も食を絶っとる小僧がおるようじゃあないか。家の者はいつか諦めると思っとるらしいが、あの小僧の決意は固いぞい。死んじまうかもしれねぇ。」
「お、おれに何をしろと!?」
酒の神さまの笑みに、嫌な含みを感じてギョクは言いました。
「乗せてあげて満足させてやりなさい」
「そんな坊主のためにですか!?」
ギョクは思わず叫びました。
「行かぬならば、お主の来年の麦酒はなし、じゃな。」
ギョクは酒が飲めなくなるのは上手くないと内心嘆き、一声甲高く鳴くと、喉をポコポコ鳴らして下界に降りていきました。
アキオが食を絶ってから五日が立ちます。流石のアキオも足元がふらついてきました。
いつものように格子にすがっていると、遠くから何かが飛んで来ます。
始めは鳥かと思いました。しかし、だんだんと大きくなる裂けた真っ赤な口。
気付けば格子の向こうに大きく黄色い血走った目の龍がいました。
鼻息は熱く肌が焦げるようです。
「うわぁ!!龍だ!」
アキオはあっけなく逃げ出しました。
竜はきょとんとして少年の背中を眺めました。
少年は母の機織り部屋に駆け込みました。
ギョクは仕方なく背中を丸め天に帰りました。
「おれってばそんなに恐いのか?」
その後暫く、ギョクは酒樽に映る自らの姿を見つめて唸る日々が続きました。
タタッタタッ、タタッタタッ、タタッタタッ、タタッタタッ、
小気味のよい振動を刻みながら、列車は分水嶺の長いトンネルを抜けると、たちまち車内に眩しい光線が差し込み、やや遅れて新緑の風景が、ぼぁと背後から浮かび上がってきた。目の前にいたサラリーマン風の若者がうたた寝から身を起こし、私と目が合うと、ややや、と幾分慌てた様子で立ち上がった。くるりと私に背を向け、その背中で小さく
「どうぞ」
とボソリつぶやきを残す。あ、いや、どうしたものか、私の意向に構わず扉の脇へ移動し、携帯をもてあそび始めた。
「ありがとう」
彼の背中に頭を下げる。
座席に腰を下ろすやいなや、それを待ち構えていたように隣の妙齢の婦人が、
「今日は、いいお天気ですねぇ」
と呟いた。ああ、ほんとにいい天気だ。窓から青い空を覗き込みながら、ふむ、どこかで聞いたような声だな、ひどく懐かしい気分が押し寄せてくる。何気に膝の上に重ねられた婦人の年期の入った手の甲が目に入る。左手の薬指に、私の同じ文様のプラチナの指環。長い年月にさらされ、傷だらけになりながら、鈍く外からの光を乱反射させている。ああ、あなたは妻だったのか、こうしてふたり並んで列車に乗るのなんて何年ぶりのことだろう。いや、何年も会話すら交わしてないのではなかったか。婦人の、妻の、しわを刻んだ横顔をちらりうかがい、何故だかようやく彼女に出会えた気持ちが押し寄せてきた。
タタッタタッ、タタッタタッ、タタ、タタッ、タタ、タタッ、タタ、タタ、
初夏の緑のトンネルをくぐり抜けた列車は、速度を落とす。
「さあ、あなた。着きましたよ」
妻が私の肩を二度三度ぽんぽんと叩き、立ち上がる。扉の脇の青年にひとつ会釈をし、わたし達は列車を降りた。真っ白な砂を敷き詰めたホーム。そして真っ白に塗り込められた駅名標。雲ひとつない真っ青な空の向こう側から、巨大なブーゲンビリヤがの真紅の葉を幾枚ともなく散らせている。ここは一体どこだ、と問うべき相手はすでに、無人の改札を抜けようとしているところだ。
「おおい、待ってくれ」
私は小走りになって、妻の後を追った。
斜向かいの佐々木さん家にはペロちゃんという雑種の犬がいる。
奥さんが毎朝ジョギングがてらお散歩に連れ出す。その時のペロちゃんのうれしそうな事といったら子供がクリスマスケーキを見た時、又はそれ以上だ。毎日そのテンションだ。人間業じゃない。いや、犬だったか。
そんなペロちゃんは近所じゃちょいと有名な犬だ。家の前を保育園の子供たちがお散歩をする際、列をなして通る時にいつもペロちゃんは首を左右に振って舌を出してお見送りをする。それを見て子供たちは
『ペロー』
『ペェーロォーォ!!』
『ペロバイバーイ』
と、手を振って返す。ペロは絶対吠えたりしない。園児の長い列が通り過ぎるまで舌を出して首を振っている。
そんなペロちゃんにはこんな逸話がある。
朝は奥さんとお散歩をするのだが、夕方は佐々木さん家の末っ子のあきえちゃんとお散歩をする。2月頃だったか、6時前だがすでに日もとっぷりと暮れていたある日、いつものようにあきえちゃんとお散歩にいったんだ。散歩コースの川の土手で、歳は私と同じ位らしい変質者が現れたんだって。あきえちゃんは大人しい子だから震えて声も出なかったんだろうな。その場にしゃがみ込んでしまって、近寄ってきたその男に捕まったらしいんだ。
そしたら、あのペロちゃんが『ギャンギャン!!ギャンギャン!!!』ってその男の鼻に噛み付いたんだって。食らいつき離さないもんだから、痛くて痛くて、大きな声を出してのたうち回る男の声に気づいた近所の大学生が、その場に駆けつけて助けたんだと。
お手柄だお手柄だって警察の方からとっても褒められてたんだよ。それ以来近所のみんなもペロちゃんには一目置いてるんだよね。
あぁ、ちなみにペロちゃんは佐々木さん家じゃ「タロウ」って呼ばれているんだ。ペロちゃんってのはいつも舌をペロって出してるからみんながそう呼んでるんだね。
あの人は二回りも小さくなっていた。黒衣ではなく、淡い小花模様の作務衣姿だ。纏めて櫛を着けていた髪は短髪になっている。
「四ヶ月前に息子は亡くなりました。先生はご存じでいらっしゃったのでは?」
和歌子は声を抑えて言った。
「そうですか。ああ、亡くなりましたか」
あの人はそこまで言うと、後の言葉を続けなかった。和歌子は、前屈みの姿を見ながら所詮人間なのだと思った。
「私は御仏にお仕えし神通力があります。二百まで生きますよ」とあの頃言っていた。
「先生、お幾つになられましたか」
「八十四歳になりましたよ」
あの人は和歌子に微笑んだ。二十年もの間にすっかりあの頃の姿勢と威厳は崩れている。
「若住職はご結婚なさって?」
「それが、まだなのよ。四十になったのだけど。どなたかいい人おりませんか」
「檀家さんの中には良いお嬢さんいらっしゃるでしょう」
「それが、なかなかねぇ」
生活の全てに影響を受けていた頃には考えられないほど、和歌子はあの人と対等に向き合った。
「新しく立派にお堂も出来上がりましたよ。また、来て下さいよ」
あの人はそう言ってから、一口コーヒーを飲んで「おいしい」と小声で言った。
和歌子には、信者としての気持ちが既にないことを知ると、あの人は椅子から立ち上がった。二人のお供の女性が両脇から支えた。
中学生の上履きのような運動靴を履いて、ツツ、ツツと歩いた。
和歌子は、身障者の息子と、百日祈願参りをした昔を思い出していた。
あの人が振り返って言った。
「若住職の結婚運はどうかしら? あなたの家はもうお孫さんもいるようだし。相談に乗ってくれませんか」
冗談を言っている雰囲気ではない。神懸かりの発言をしていた同じ人間の言うこととは理解しがたい。
――御仏のお力で、息子さんを起き上がって歩くまでに治して上げますよ。と言った先生を、信じたのは間違いでしたね。
と、和歌子は言いたかったが、目前の老婆に哀れさえ感じた。
「お寺にお嫁さんを貰わないうちは、あの世へも行かれませんのよ、ね」
あの人は、お供の女性達に同意を求めるように言ったが、二人とも無言で目を逸らした。
――先生、後百十六年生きるんでしょ。まぁだまだ元気でいらっしゃらないと。
和歌子は皮肉を飲み込んだ。
「宜しかったらここへご相談なさったら」
和歌子は、仲人協会々員の友達の名刺を見せた。あの人は細字が見えたようだ。
「まぁ、早速電話を掛けてみるわ」
精神感応者なんて厄介だ・・・そう思う。
こちらの考えはお見通しのくせに、わかってもらいたいことはちゃんと言わなきゃダメ、なんて言う。
言った言葉だけを真実として受け取るから、なんて。
でも知られてると思うと言えなくなるんだよ。
そして違うこと言っちゃう。
違うこと言ってるなー、と思いながら聞いているアナタが
「君がそう言うのなら」なんて言うから、いつも私は癇癪を起こすことになる。
どうしてどうして、どうしてこの人は!って。
だけど本当に大変なのは、きっとアナタ自身なんだよね。
わかってる。
ちょっとはわかってるよ、私。
こういうときだけ身勝手に思う。
ちょっとはわかってる私も、ちゃんと知っててくれるんだよね。
あ、でもここはわかっても知らんぷりしてていいから。
ふふっ。
・・・あ。
でもこういう打算も読まれているわけ?
あぁもうどうしたらいいの?
どう付き合ったらいいのかなー。
「あのさ。そんなに何でも読めちゃうわけじゃないからね?」
頭をかかえて悩んでいる最中に、それはトドメでしょ。
もう別れよっかなー。
あっ、でもこれも聞こえて・・・・(エンドレス)
私の生まれ育った家は田舎の大きな川の近くの湿地帯を埋め立てた場所にあって、いつも湿っぽかった。冬の朝など家を出ると白い霧に包まれて数歩先さえ見えないこともよくあった。小学校へ登校するとき、かじかんだ手に白い息を吹きつけながら、白い霧のカーテンの折り重なる道をちょっと息苦しいような気持ちになりつつ、かき分けかき分け進んだ。歩くうち、不意に隣家の瑛子の赤いランドセルが目の前に現れた。
大人になって故郷を離れた後も、私はときどき瑛子の夢を見た。瑛子はいつも突然現れて、常に赤いドレスを着ていた。夢の中で深夜車を走らせていると、瑛子が道端で親指を突き出しているのが見えた。乗り込んできた瑛子は肉感的な美女になっていた。瑛子は大胆で、自信に満ち、口元に嘲るような笑みを浮かべていた。白い肌に濃い口紅をつけていた。白い手が伸びて赤いマニキュアの爪を私の頬に強く立てた。
夢から覚めて、あらためて思い出の中に入って、瑛子の家の裏に古い井戸があったのを思い出す。私はよくそこで彼女を見かけた。瑛子は、祖母が水道の水を嫌うので、麦茶を沸かしたり飯を炊いたりするのにいつも井戸の水を使うのだと言った。皮膚の弱い瑛子は透き通るような白い肌をして、夏にはいつもつばの広い麦藁帽子をかぶっていた。記憶の中の瑛子は、いつも内気ではにかんだような笑みを浮かべていた。
私は長く都会で暮らし、もう故郷に帰ることがない。今、目の前にいる女は、私が選んだ赤いドレスを着て、私の要望どおり口紅もマニキュアも濃い赤を使っていた。
「瑛子……」
「瑛子って、だれ?」
「おまえだ」
「いいわよ」
女はホテルの一室で前渡しした札びらをすばやく数えてしまいこんだ。私は女を押し倒し赤いドレスを引き裂いた。女は品なく声を上げて笑った。静脈の浮き出た白い胸をしばらく見た。隠し持っていた剃刀で傷をつけた。悲鳴を上げて起き上がろうとする女を強く押さえつけた。
「もうしない」
そう言って彼女に見えるように剃刀を投げ捨てた。
「変態!」
私はさらに札びらを何枚か取り出して女の顔の上に置いた。深く入った切り口から溢れ出る溢れ出る深紅をなめてとっていきなめとっていく。
赤い薔薇を手折った瑛子は、指を切ったことに気付いて、顔をしかめて指先を口に押し込んだ。私は彼女の赤い唇をむさぼり赤い傷口に舌を這わせ繁みの中の赤い薔薇を手折る。
「瑛子」
「知らないわ、そんな女」
町の中心の広場に、人だかりができていた。その中心にいるのは、一人の男であった。
「魔王? お伽噺の話かい?」周りの男の一人が揶揄するように、そう聞く。
「そうじゃない。……、いや。そうかも知れない。伝説やお伽噺に残る魔王。それは全て、奴の事なのかも」男は否定しかけ、目を瞑って思案に沈んだ。
その男の姿を周りの人間は、見世物でも見るかのように見つめていた。
「私はここからずっと南の方角にある、小さな国に住んでいた」と、男が語り始めた。
「南の小国ねぇ。最近、大地震で、滅んだ国も南の小さな国だったな」男の話を聞きながら、そんな噂話に興じる者いる。が、気にせず、男は語り続けた。
「ある日、一人の男が王宮に現れて、王族達の前でこう言った。『私は魔王だ』と。当然、みな、馬鹿馬鹿しい冗談だと笑った。だが、次の瞬間、笑い声は地面を割る轟音に掻き消された」
「まさか」そう、噂話をしていた者が、小さく驚きの声を上げる。
「そうだ。その地震は魔王と名乗る男が引き起こした物。小国とは言え、一つの国がその男一人に滅ぼされたんだ」
「待った。なぜ、その男が引き起こした物だとわかる?」と、疑問の声がかかる。
「恐らくは、魔王はこう考えたのだろう。この世に姿を現さない内に、魔王と言う名が絵空事に考えられている、と。そして、魔王はある事を思いついた」男は答えず、ただ言葉を紡ぐ。
「ある事?」
「魔王はその時に死んだ魂全てを呼び出し、こう告げた。『我が恐怖を知らしめる、導となれ』」
その瞬間、男の下半身が音も無くひしゃげたかと思うと、男は血を吐いた。だが、その血は地面に降りかからず、瞬時に消え失せた。
その瞬間、人々は何が起きたのか理解できなかった。ただ、下半身の支えを失った男が目の前にいるのを、黙って見守るだけであった。
「だ、大丈夫か?」と、一人の男が駆け寄る。
「気にしなくても良い。私はもう、死んでいるのだからな。それに……」そう答え、男は不気味な、そして、とても嬉しそうな笑みを浮かべた。
「それ……、に?」その笑みに薄ら寒い物を感じつつ、続きを促す。
「すぐに、あんたも恐怖を伝える、私のお仲間になるさ」男がそう言うと同時に、人々は地面が揺らぐのを感じた。
真由子は色の白い女であった。化粧気の無い真白な頬に触れたいと思ったことは度々あったが、その度に工具の油で汚れた自分の黒い指を慌てて引込めた。そんなときいつも真由子はにこりとこちらを見るのだった。彼女の汚れを知らない無垢な笑顔を見ていると、自分がどうにも不純に思えて仕方が無かった。真由子の横に立っているだけで幸福を感じた。その度に罪悪感が積った。
真由子は僕を先生と呼んだ。歳は5つも離れてはいなかった。真由子は丁寧な言葉をさらりと話した。僕の方がしどろもどろでいつも真由子に笑われていた。コーヒーをお淹れしましょうか。そう言って彼女は狭い机の後ろを通り奥の部屋へ入る。いつものコーヒーメーカで淹れたコーヒーが格別に美味く感じた。君はコーヒーを淹れるのが上手だね。冗談めかして言ってみたがやはり真由子はくすりと笑うだけだった。
大学の第一実験棟の片隅でマッキントッシュに打ち込んだプログラムを直している時に、真由子の声が聞こえた。僕のいる場所から姿は見えなかったが、この実験棟に出入りしている女性は真由子しかいない。何より僕が彼女の声を聞き違えるはずが無かった。もう一人は真由子を指導している森教授だった。僕の上司である。こんな深夜まで研究ご苦労様。こころの中でそう言ってマッキントッシュと向き合った。解析を開始する。進むプログラムをじっと見つめながら、反対の隅にいるはずの真由子のことばかりを考えていた。数分後、不意に聞こえてきたのは真由子の小さなあという声だった。定期的に聞こえてくる小さなそれが真由子の喘ぎ声だと気付くのにそう時間はかからなかった。声は小さかったが熱を含み、布の擦れ合う音が聞こえてきた。まず耳を塞ぐべきだったのかもしれないが、僕の両手は僕の顔を覆った。両手で遮られた黒い視界の中で真由子の情事を思う自分の思考が堪らなく不潔に感じた。そっと両手を顔から離すと、相変わらず黒く汚れた僕の指が視界に入った。モニタは相変わらず決められたプログラムを進めるだけだった。どちらを見るのも嫌だった。仕方なく仰いだ実験棟の天井は高く静かで、ただ真由子の声だけが響いていた。
今にも降り出しそうなどんよりした空。当たり前だ。ついさっきまで降ってたんだから。「また降り出さないうちに早く帰りましょう」って、帰りの会で田村先生も言ってた。
僕だって本当は早く帰りたかった。
「やっぱり無理だよ、弘」
「まだわかんないだろ」
弘は水を吸った重い砂を積み上げていた。僕はせっせと砂をバケツにくんで弘に渡す。砂山はもうだいぶ大きくて、弘はうんせと目の高さまでバケツを上げなきゃならない。
僕らの足元で、宮原がひらひらの長いスカートを汚しながら、細い指で熱心に黒い砂を集めている。
雲の灰色が濃くなってきて、おでこに冷たいものが当った気がした。
「潤、ジャンバー貸して」
弘は僕の上着を宮原に渡した。
「これ着ろよ。風邪ひくから」
宮原が僕を見る。僕はうなずくしかない。
弘は胴体を作り終えて首に取りかかった。宮原が小さな手で支える。
けれど何度作ってもがさりと崩れてしまう。
もう先生が見回りに来る時間だ。薄い唇をぎゅっと噛む宮原。赤くなった指がそれでも休まず砂を掬っていた。
「代わって」
僕は弘を押しのけた。長い棒を骨にして砂を固めると、ようやく首が長く伸びた。でも肝心の顔の部分が難しい。何かないか。僕は足元を必死に探した。
「おうい。そこでまだ遊んでるのは誰ですか」
やばいぞ、とこっちを見る弘。僕は棒の先にかぶせた物の上に一気に砂を塗り固めて顔の形を作った。
「弘君、こんな天気の日まで砂遊びしなくてもいいのに」
仕方ないな、って感じで駆け寄ってきたのは田村先生だ。でも宮原を見つけた瞬間に表情が急に険しくなる。
「君達、宮原さんは明日入院だって言っただろう」
先生に睨まれて僕は弘を振り返った。
「ねえ、先生見て! 私一度こんな風にしてみたかったの!」
不恰好な砂の怪獣に乗った宮原が手を振った。青白い顔も細っこい手足も、僕が貸した上着も砂まみれだ。怪獣は思ったより小さくて、田村先生の胸までしかなかった。けれど、体の小さい宮原が乗ると怪獣の子どもくらいには見えた。
「おーっ、宮原すげーぞ。センセ、ケータイ貸して、早く」
弘は先生のズボンのポケットに手を突っ込んだ。もみ合いの末、結局先生がケータイを構えて僕たち三人を撮った。
弘と二人で宮原を送った帰り道で、怪獣の頭がい骨になった靴の代わりに先生の貸してくれた靴はちょっと大きくて、がっぽがっぽと軽やかな音を立てて僕を家まで運んでくれた。
猫は「短編」なんて見ないと思うんで、うんと気兼ねなくいきますね。最近、僕の部屋には野良猫が出没します。今宵、パソコンに向かおうと自部屋のドアを開けたら早速、白い物体が机の上を右往左往していたので、僕は最初気がついてないフリをしていたんです。そしたらよせばいいのに、最終的に、目測を誤った位置に着地してしまったんでしょう。積み上げてあったマイCDの山を蹴散らしてドシャーン!
開いていた窓から出て行きました。
残念なことに、この部屋の窓は立て付けが悪く、なにをどうやってもロックがかけられません。ですから、僕がうんと本腰を入れて「猫対策」に乗り出さない限り、野良猫はすっかり味をしめて、これからも僕のいない間に部屋にやってくることでしょう。
そのことは別にいいんです。部屋にションベンでもされない限り、僕はコンゴもザイールも、君の立ち入りは許可します。
で、僕が哲学的に考えてしまったのは、「逃げる」という行為についてでした。かの白猫は部屋の電気がつくや否や、それこそ電光石火のごとく逃げていってしまいました。「逃げる」とは何か。早速辞書を引いてみました。
にげる【逃げる・遁げる】①のがれ去る。②責任を避ける。③正しい位置からそれる。④競技で、追いつかれないで勝つ。
どうやら辞書に頼ったのが間違いだったみたいです。多分、「のがれる」を引いたら、きっと「にげる」とあるに違いありません。大方辞書というものは、こういったたらい回し的な「相互リンク」がなされておるわけで、ここに、「逃げる」なんて言葉をわざわざ字引きで調べるやつはおらんじゃろう、という、その道の大家であられまする、「編纂者」どもの職務怠慢が見られるわけなんです。
まあいいです。少なくとも、上記の説明には、さっきの白い猫の「逃げる」を言いえたモノは見つかりません。なぜならかの猫は、「責任を避けた」わけでもなく、「正しい位置からそれた」のでもなければ、「競技で、追いつかれないで勝った」わけでもないからです。しいて言えば、Bの真逆でしょう。被告は、「間違った位置から、(本来のねぐらである)正しい位置に戻った」ワケですから。
まあ、これについては後日、猫本人に聞いてみます。彼(オスと推定)にしてみたら、「俺はあのとき『逃げた』んじゃねえ」とか、言い分があるのかもしれませんからね。ところで皆さん、猫語の辞書とかって、持ってます、か?
Rの字は壁に寄りかかった待ちぼうけのようで、今の私にも似ていた。
外は雨で、財布はすかすか、じっと電話を待っていた。
用事があるわけでもないし、特別聞きたい声でもない。ただ昨日、明日電話していいかな、と聞かれて、いいとも、と言ったから、かかってくることにはなっているのだ。
液晶ディスプレイを灯りのようにぼんやりと見つめて、キーボードにだらんと指を垂らして、それでも右半身は携帯電話を意識したまま、私はRについて考えた。
Rは、理由もなく派手な帽子が良く似合うような雰囲気のある人で、しかし自己主張することを好まずに、時にはただ成り行きに身を任せているだけのように見えることもあった。何もしないでも目立つ、やはりどこか変わった感じの人だ。
そんな彼女を雨の中、地下鉄の入り口前に見つけたときには驚いた。疲れ果てたような、どこか寂しげな顔。雨の向こうにいたせいでそう見えたところもあったかもしれないが、それでも、そんな生活感のある表情を彼女の顔で見ることになるなんて、思いもかけなかった。
気付かないふりもできたし、わかっていながら素通りできないほど親密でもなかったが、私はごく自然な風を装って、その実興味津々で声をかけた。
誰か待っているの。ううん、なんでもない。馬鹿に大きくて真っ黒な傘を両手で持って、彼女はいつも通りに微笑んだのだが、それから付け加えるように私に電話の予約を入れたその口ぶりが普通の人のように堅苦しくて、私はまた驚いた。
階段を下りて振り返ると、彼女はまだそこにいた。傘の中にすっぽりと収まって、元々大柄な人ではないのも手伝ってか、とても小さく見えた。
それから二十四時間が経った。
食べかけのスナック菓子。飲みかけの缶コーヒー。読みかけの雑誌。書きかけの小説。落ち着かなさがまき散らされた部屋の中、唯一ポスターの映画俳優だけが冷静な顔をしていた。彼はここに来て以来ずっとそうしていたが、それが私を慰めてくれるわけでもなければ熱を冷ましてくれるわけでもないことにはもうだいぶ前から感付いていた。
左の中指でそっとRの頭を撫でてやっても、視界の隅には携帯が居座ったままだ。
床に落ちたカンバスの上を電線の影が行ったり来たり。君はえんじ色のシートにひざを立てて、窓の景色に見いっている。昼のさなか、大阪から京都へ向かう各駅停車だから、人の影はまばら。遠慮しなくていいはずなのに、長細いシートのはしで身をもたせ合っている僕ら。
いつでも月から金はあわただしい。一編の詩をゆっくりと読む暇も何もありやしない。五日間のふてくされた人生と折り合いを付けるために束の間、電車に乗るなんてありふれたやり方。君は窓の外を見ている。
岸辺という名の駅を過ぎた頃、はたして川岸でも見えるのだろうかと、僕は視線を床から持ち上げて首を回し、こめかみを窓枠に寄せた。川なんて見えず、代わりに原っぱのそこかしこには黄色い花の群。
「たくさん咲いてるね。あれは菜の花かな?」
僕は君に尋ねた。
「菜の花じゃないわ。あれは、きりん草」
君が僕に答えた。
「きりん草?」と僕。
「そうよ、おかしい人。秋に菜の花だなんて!」そう言って、大げさに君は笑った。
「秋に菜の花は咲いてないわ」
「そうか」
そういえば、そうかもしれない。
「きりん草は葉っぱと根っこに毒があるのよ」
「ほんとうかい?」
「ほんとうよ。小学校の時に先生に習ったもの。きりん草を触っちゃだめだって」
「ふううん」
「あら、信じてないのね」
「ううん」どっちつかずの返事で答える。僕の頭を、君がぽんぽんと叩いた。「どっちにしろ」攻撃のあいま僕は言った。「僕の小学校の先生は教えてくれなかった」
「そうかしら」
「そうだよ」
「きっと、あなたがそれを望まなかっただけよ」
「そうかしら?」
各駅列車が次の駅に停車すると思いのほか乗客があった。君はひざを立てることすら止めて、前を向いて座ってしまい、それきり僕らはきりん草の話もしなくなった。
*
月曜の朝、寒いからコートを羽織って外へ出る。空には薄い曇。あやつり人形のように足を動かして、駐輪場まで歩いてゆく僕。自転車の前で立ち止まるとフェンスのすぐ脇に、黄色のつぶつぶの花を付けた植物が生えているのを見つけた。
きりん草。五年間こうして通っているのに気付かなかったとはね。知れば近づいてくる。草でも人でも、それは同じことだ。
今朝、十月を知ったよ。君は、どうしてる?
肺に息を入れて、そんな手紙を空に、投函してみる。
帰りの遅い浩介を待つために、洗濯は夜干すと決めていた。待ちきれずに浩太郎のそばで寝てしまうこともある。そんなとき、朝起きて見るとテーブルの上はゆうべのまま、伏せた茶碗と汁碗が並んでいた。
「食べなかったの」
「遅すぎて食欲なかったんだ」
「かぼちゃのみそ汁おいしくできたのにな」
なるたけ明るい声で透子は言い、手早く食器や箸を片づける。
「今日は早く帰れそう?」
「うーん、いつもと変わらないかなぁ」
言い終えて、浩介は無造作に顔を洗う。
洗濯を干し終えた透子はベランダにもたれて口笛を吹いた。曲名はおおスザンナ。小学校の音楽の時間に習ったことがある。音を辿るのは気持ちがいい。喉の奥に溜まっていた疲れが少しずつ溶け、木々も屋根もしっとりと濡れた目を覚ます。それから、形のいびつな新芽の一枚一枚が動きだし町を覆い始める。透子は唇を尖らて、息の通り道を作る。掠れた空気が次第にありったけの緑を増幅させていく。緑という緑で町が埋め尽くされると、ひと吹きの風にすべてが黒く光り出す。水たまりを越えた瞬間に映る裏返しの景色のようだ。何一つ変わらない外観でも、わずかに風が反響しているのがわかる。音が変わった、と透子はつぶやく。おおスザンナ泣くのじゃない。バンジョーを持って出掛けたところです。すっかり変わってしまった町を眺め、透子は続きを吹いた。
二・三日暖かい日が続いたからってあわてなくてもよかった。苦笑し呼吸を整える。お揃いのロゴ入りTシャツが夜の空気に張り付き短い袖口をうねらせている。そのたび水色が流れてくるようで、透子は身震いした。夜は思いの外冷える。息を吸い唇を開きかけた時、ただいまと浩介が帰ってきた。ほほの緊張をほどいておかえりと答える。ほんの少し尖らせた唇が冷たくなっていた。
「ご飯あっためるね」
まだ何も乗っていないテーブルに、透子は灰皿を置く。ハンバーグを焼くため、フライパンに油を注いだ。油は落とされたところにゆったりとどまり、やがて薄く広がった。
「なぁ、さっき誰か口笛吹いてたろ」
ライターを試し付けしながら浩介が聞いた。
「家の近くまで来たら聞こえたんだ」
そう、とだけ返事して、透子はハンバーグを裏返した。急な動作にならないようにと思ったが、もう裏返してしまった。
「あなたの知らない人よ」
たいした問題でもないというふうに、浩介は煙草に火をつけた。たいした問題でもない夜がふたりの間を流れていった。
女は石室に閉じこもっていた。
無表情な石で四方を囲み、鬱々と毎日を過ごしていた。
石室の向こうで囀る小鳥の声を聞き、女は外の世界を想い、嘆息する。
生命の息吹き、肉体が躍動する世界。
女は日々、従者から伝え聞くその世界に憧れ、一目だけでも見れないものかと、悶々としていた。
従者を見ることもできない、声のみを頼りにする生活。従者がどのような格好をしているのかさえ、知らない生活。
女は無表情な石壁を見つめる。
そのせいか、女の顔も無表情にみえる。
もちろん、誰も気づかない。
天蓋のついた硬い寝具に身を横たえ、夢の中で人や獣と戯れようとするが、見知らぬものを夢想することはできなかった。ただ、灰色の夢に、女はうなされた。深いため息が、自然と漏れ出す……。
忍びよる気配に気づき、女は目を覚ました。警戒し、慎重に歩を進める様子が、石室の空気でわかる。女は考えた。振り向き、その姿を確認するべきだろうか?しかし、この慎重な気配が従者のものであれば、ひどく気の毒な結果になる。女はこれまでに、三度の間違いを犯し、気のいい従者たちを帰らぬ人にしてしまっている。
女は思案し、大袈裟に寝返りをうってみた。しかし、気配は立ち去ろうとしなかった。身動きをやめ、様子をうかがっている。
なんだか薄気味が悪い。四人目の犠牲者をだすのは憚られたが、女は固く閉じていた瞳を、少しだけ開いた。
背を向けた青年がいる。
肩幅のあるがっちりとした背に、隆々とした筋肉が緊張していた。ひそめた息のわずかな呼吸にあわせて、その力強い体躯が律動している。右手には湾曲した刀が握られ、左手には鏡のように磨かれた盾を持っていた。盾には青年の凛々しい横顔が、はっきりと映っていた。
女は堪えきれず目を開き、声を漏らした。
「なんて、きれいなの……」
だが、青年にその想いは届かなかった。女の声に反応したときには、曲刀が女の首を刎ねていた。
「気が触れたか! メデューサ!」
青年――ペルセウスは、その一言だけを吐き捨て、女の髪を掴むと、腰の皮袋に首をしまいこんだ。
メデューサの首は、決して恐怖で引きつったような表情をしていない。むしろ、積年望んでいた見知らぬ国へ訪れたような喜びと、好奇の表情に満ち、活き活きとした状態で硬直している。
しかし、そのことを知る者は、空を支える大神アトラスと、アンドロメダを食い損ねた、名もなき海獣のみである。
「暇」
「暇?」
「笑わせてよ」
「いいよ。じゃあタコの兄さんの話をしようか」
「それ飽きた」
「じゃあイカのおじさんにする」
「イカのおじさん……ね。どうせ、イカのおじさんがいいました、イカん! とかそういうのでしょ」
「よくわかるな」
「ああ暇」
「じゃあ象の歌について語ろう。ゾウさん歌える?」
「知ってるよ、ぞーさん、ぞーさんってやつでしょ」
「その続きなんだよ問題は。続けて」
「どうしてあたしが? 馬鹿みたいじゃん」
「おーはながながいのね。そーよ、か・あ・さ・んも なーーがいのよー」
「音程ずれてるよ」
「じゃあいいかい、問題だすよ。この唱の中で『母さんも長いのよ』と言っているのは誰? ①読者②語り手③母さん象④子象」
「誰でもいいよ」
「それじゃあ話にならない。こういうときは嫌でも回答すべきだ」
「母さん象?」
「ちがう。子象だよ。子像が鼻長いねーって褒められるんだけど、『母さんも長いのよ』って親を誇るんだ」
「それで?」
「感動しないの」
「どこに」
「いいかい。これは戦後に作詞まどみちお作曲團伊玖磨でつくられた」
「うん」
「日本がね、アメリカに占領されてたんだよ」
「それとどんな関係が……」
「ほら考えてみろよ、焼け野原で夕陽を見ながらこれがラジオにかかるんだ。ぞーさん、ぞーさんお鼻長いのね、みんなここで一呼吸置いてさ。そーよ母さんも長いのよ……とこうくる。母さん象は日本の象徴であり、自分の母さんのことでもある」
「わからないなあ」
「え、うそ」
「うーん。なんか意味不明」
「え」
「でも意味不明っぽくておもしろい気もする」
「そうか。まあ笑いは個人的だから」
「なんかユーモアって感じの笑い話してよ。もっとほら軽くてさ。すいすい進んでがつんとどんでん返しがくるような」
「すいすいがつんねえ。やってみよう」
「よしよし」
「俺の近所にユカちゃんっていう姉ちゃんがいて子供の頃、遊んでくれた」
「うん」
「高校のとき根は悪くないけどちょっと変な奴とつるんでてさ、そいつと街に出たときにユカちゃんがいて。あれ、何話してんだ俺」
「続けて」
「ユカちゃんは彼氏っぽい人と歩いてたんだけど俺のつれが突然二人に叫んだんだ」
「なんて?」
「お前らヤッてんじゃねえぞ! って。ユカちゃん、俺の目をじっとみて。俺、あたま真っ白になって。その目を思い出す度に……あれ、あれ?」
「笑えないぞ」
「そうだな、変だ」
「でもイカや象の話よりよかったよ」
「そう?」
「うん」
「人間は滅ぶね。みどりの怪獣がアメリカの主要各都市を壊して回っているからね。人間は滅ぶね。滅んでしまうね」
「セックスの時くらいテレビは消しましょうよ。本当にテレビっ子ですね先生は」
「気にしないでおまんこ舐めて。ああ、滅ぶね人間は」
「でもあおい怪獣のようなオチにはならないでしょうね。知ってます? あおい怪獣のおはなし」
「知ってる知ってる。子どもの頃何回も読んだ。小さなあおい怪獣を連れて帰ると、あおい怪獣がどんどんものを食べてしまって」
「『だめじゃないか僕のママとパパを食べてしまって。どうするんだよ』」
「『ごめんよう、でもおなかがすいて』。あおい怪獣はどんどんいろんなものを食べてしまって、どんどん大きくなって」
「『あおい怪獣はビルよりも大きくなって』」
「で、最後に食べられた主人公が怪獣のお腹の中で、怪獣の食べた世界がそっくりそのまま残っているのを見る。あれは怖い話だねえ。世界に対して食べるという行為しかできなくて、世界の全ての、世界の全部の物の、世界の全部の人の、その外側にしか存在できないのだからねえ。なんていう孤独。なんていうひとりぼっち。なんて寂しいのだろう」
「じゃあ先生、その寂しさで一つ何か書いて下さいよ」
「最近は寂しくもないし悲しくもないから何も書けない」
「良いからなんか書けよ」
「だから書けねえって言ってんじゃん」
「困った人だなあ。来月二人目生まれるのに。路頭に迷うなあ」
「また生まれるんだ。奥さんとはお尻でしないの?」
「しますよ。両方でします。あの女、尻好きそうに見えるでしょう」
「見える見える。だからっ、あたしは無理だって。いたたた、痛いって。馬鹿、痛い痛い。ていうかなに、みどりの怪獣がやられた? 黄色の怪獣に? なにそのオチ、超くだらなっ。つまんない。ていうかあたしの代わりにあんたが何か書きなよ。下手くそですよ僕、って解ってるよそれくらい。最初は誰もそうなの、って何これ、ぷっ、超下手くそ。才能ゼロだね」
「才能ゼロですよ」
「そっか……。じゃあしょうがないね……。まあお互い頑張ろうか。ていうか見て、黄色の怪獣格好いいよ。ファンになっちゃいそう。頑張ってー、って自分で言ってて嘘臭く感じるのは何故。本気のつもりなんだけれど。ここがあおい怪獣の中だからか。仕方ないから薬でも飲むか」
部屋中に散らばる薬を一粒手に取る。偽の宝石のようなその輝きを、あたしはつるりと飲み込む。
弟の爪が伸びているのが見えた。彼女がいるのだから爪くらいちゃんとしろよと思う。私は戸棚から爪切りを取り出し、放り投げる。受け取った弟は、姉の私に向かって面倒くさそうに苦笑した。
彼も私も黒い服を着ていた。私が小六で、彼が小四のときだった。お葬式だった。亡くなったのは私の叔父で、そして彼の父親だった。事故だった。
叔父は人付き合いが苦手な、けれど気の良いおじさんだった。私は大人びた子供で、何かささくれ立っていた覚えがある。だからか変わり者の叔父とは妙に気が合ったのだけど、そんな叔父は親戚からの受けが悪く、ギャンブル好きで、奥さんに逃げられもしていた。
「ろくでなしだったねえ」
お葬式で、叔父は送られる人だから、悪意のある言葉ではなかった。でも、私はその言葉でひどく嫌な気分になった。胸がむかついて深く息をした。その言葉を発した彼の隣で上品に笑っている女の人を、金属バットで殴り殺す想像をした。もちろんバットは持ってなかったし、本当にそうする気もなかった。
誰も悪気ではなかった。女の人も彼を元気づけたくて、「こう言っては何だけど」と漏らしたのだと思う。でも、それと連れ立って出てきた叔父への言葉に、彼は自分のてのひらに爪を食い込ませた。ときおり相槌を打ち、ずっと周りの人達の話を聞いていた。泣いてはいなかった。ただ、ずっとこぶしを握っていた。
それがひどく痛そうで、私は泣いた。幼い子供の涙が大人を動揺させることを私は知っていた。泣きながら彼の首に腕を廻した。彼は私よりもずっと小さかった。目を瞑った。そうしないと周りにいる誰かを睨み付けてしまいそうだった。ろくでなしの叔父を気に入っていた。上品に笑う女の人を殴り殺したかった。自分に吐き気がした。一瞬だけ、腕の中の彼をくびり殺す想像をした。
彼がびくりと震えた。
弟は迎えに来た彼女と遊びに出掛けた。可愛らしい、優しそうな子だった。私はひとり、昔のことを思い出す。親の違う弟ができる、そのきっかけになった日のこと。
あの日、私の中にあったものは何だったのだろう。愛情や同情。あるいは優越感。曖昧な何かに対しての苛立ち……。
それは懐かしく、でも、どこか痛んだ。
彼に寄り添うように座る私を、周りの人達は「優しい子だ」と言った。私は何度も首を横に振った。彼はその度に私の手を強く握った。私が優しくなんてないことを、少なくとも私と彼は知っていた。
職を失した三十八歳の初夏、私は突然左眼の視力を失った。視神経に異常は無く、医者は、精神的な問題です、と片付けてすぐに次の患者へ心を移した。
陽の射さない部屋の片方だけが、色濃い闇に包まれた。その濃淡の狭間に漂っていると、唯何もせずに一日一日が過ぎて行った。食すことも寝ることも忘れる程であった。
或る時、漆黒の中に何かがほのめいた。
それは小学生の頃によく遊んでいた、紗代という少女であった。私より少し背が高く、黒髪と首が印象的に長かった。闇の中いつまでも、懐かしい彼女の姿が踊る様に駆けていた。
紗代は学期の中途で都会から越して来た。子供達が向ける都会者への羨望と蔑みの入り混じった視線の中で、根を張ったように席に座っていた。その彼女と、男子の中でも一際愚図だった私が何故親しくなれたのか判らない。が、あの頃私は他の誰とよりも、紗代と共に時間を過ごした。
色白で痩せっぽちの容姿に似合わず、紗代は近所の林を駆け回るのを好んだ。彼女ははしゃいだ声を上げながら、私の手の届かない所を跳ね回っていた。
しかし、闇に舞う彼女の様子は、独りいい様に遊ぶのではなく、実は常に私の様子を窺っていた。私が愉しむ姿を見た後で、彼女は漸く本当に笑うのだった。幹に寄り掛かって追い駆けて来る私を待つ彼女の表情は、私を按じ想う底深い温かみを帯びていた。
そうして私はアパートの自室で、右眼に晒される孤独の白日よりも、左眼に甦る紗代との思い出の闇に浸り続けた。
或る時、紗代は我に返った様に突然脚を止めた。いつもと違う様子を感じ取った私は、歩を緩めて彼女に近づいた。彼女も少し臆したような軽い歩みで、息が掛かる程に詰めて来た。
心中を図りかね、その瞳を覗き込もうとした私を、紗代は突然押し倒した。上乗りになって少し私を見詰めると、そのまま私に口づけた。
数秒してそっと唇を離した後も、紗代は私を見下ろしていた。その瞬間の、滲んだ羞恥が苦笑となって浮かんでいる彼女の顔を、私は薄目を開けて密かに仰いだ。今左眼の闇に鮮明に映じた彼女の微笑みは、そんな湿度を感じさせない、渇いた所に照る陽を想わせたが。
それを最後に、左眼の闇は何も映し出さなくなった。
あれは、私が本当に見たかった風景だったのかも知れない。そしてそれを見終えてしまった今、私は左眼の分、半分止された人間なのだと感じた。
幾度目かの日没が、部屋を黒く塗り潰した。
若葉寒に加えていろいろな疲れがたまっていたらしく、倒れてしまった。
かつぎ込まれた近所の医院で、点滴一本打ってもらったら、忽ちよくなった。
寝台に横になって、左腕に針を刺されて、天井を見上げる。鉤にぶら下がった透明な袋から、細い管が伸びて、自分の左腕までつながっている。
袋は部厚そうなビニイルで、水が一ぱい這入って膨れている。横腹になにか字が書いてあるけれど、一緒になって膨らがって、大きく歪んでいるから、こちらからは読めない。
管の半ばに小さな空間があって、その中で絶えず滴が落ちている。一秒に一滴よりも少し多そうだ。管の中身はぜんぜん動いていないように見えるけれども、この一滴ぶんずつが、まちがいなく自分の身体に注ぎ込まれているのだろう。
袋を見上げながら、色々なことを考えた。
ついこの間、尼崎で、電車が脱線して、マンションに突っ込むという事故があった。
地下に閉じ込められた人に、医師がもぐり込んでいって点滴をした。重いもので身体が押しつぶされていた人をいきなり助け出すと、その間に体内でつくられていた毒が急に回って、死んでしまう。
それを中和するために、点滴を打つ。だから何か、特別な薬が入っていただろう。いま打たれているただのブドウ糖とは違うかも知れないけれど、やっぱり同じようにこうして一滴ずつ落ちていたに違いない。暗い瓦礫の下で、その滴は見えただろうか。
一方、その大事故の後、鉄道会社の社長が、何度も繰り返しテレビの画面に映った。
見るたびに頭を下げている。遺族に詰め寄られ、記者どもに罵られて、蒼白な顔色である。
不始末はそれとしても、あれでは身体が保たないだろう。心労のあまり倒れて、点滴を打たれたことがあっても、不思議ではない。彼の場合はおそらく、安定剤も入れられたと思う。
どんな人にも、点滴の力はあまねく及ぶ。基督の福音、弥陀の誓願の如くである。言い替えれば、それは人の生命の平等ということにちがいない。
先生がやって来て、お、良くなったな、と云った。
――さっきより顔色ももどった。
――お陰さまで、どうやら直ったみたいです。
――医者はやっぱり……?
――……森先生、ですね。
――「森医者」だ、「森医者」。
母親の同級生なので、笑いながらこんな冗談を云う。回復したとは云っても、まだ薄氷の上に怖々立っているような気分だし、勘弁してくれないかなあと思う。
地面に叩きつけられたカードから、まばゆい光が四方八方に広がっていく。中心に形が見え始め、それは徐々に大きくなり、やがてジャージを着た一人の男が私の目の前に具現した。彼を認識した途端、私は今日の負けを悟った。
「久しぶり。峯も随分大人になったな」
召喚されてきた中学の時の数学教師・北は、昔と同じように暑苦しい口調で話しかけてきた。名字を呼び捨てにされるのなんて何年ぶりだろう? でも懐かしさに浸ってばかりもいられなく、私は手短にルールを説明する。
「ああ、来る途中に説明を受けたから。天の声みたいだったな、あれ。結局、向かいの奴等と戦えばいいんだろ?」
上目遣いで媚びるように私は頷いてみた。そして期待をせず、少しの興味だけを持って北を送り出した。
とはいえ、やはり北では無理だった。勝負は一瞬で決し、私は貯めこんだポイントの多くをペナルティとして奪われてしまった。やるせなくそばのベンチに座る。
「申し訳ない」
北は私の目の前に立っている。本当にすまなそうな顔をしている。
「こういうの初めてなものだから。何だか分からないうちにやられてしまった」
「先生の因数分解攻撃が効かなかったのが痛かったですね」
「ああいう外見の敵だったが、きちんと勉強していたようで簡単に解かれてしまった。数学教師としては喜ぶべきことかな……。ところで」
やはり、いつもの質問がくるのだろう。
「峯は今何をしているんだ?」
カードで呼び出された人は必ずそう問うものだから、今や私はすらすらと答えることができる。
「会社勤めをしながら、こうやってカードバトルをしています。ちなみに結婚はまだで、彼も現在募集中です」
「そうか。まあ元気そうでうれしいよ」
「先生は?」
「前と同じだよ……。知ってるか峯、最近の生徒は進んでいるんだぞ、君達の頃と違って」
北は話し始めると長いので、適当な所で切り上げなければいけない。
「先生、でもそろそろ帰還しないと。多分『神隠しだ』と心配されてますよ」
「そうか……。じゃあ峯も、社会の荒波に負けず頑張れ」
北が手を伸ばしてくる。言葉といい行動といいクサさに満ちていたけど私は握手した。落ちているカードを拾ってホルダーにしまうと、北の姿が次第に薄れてくる。
「峯、同窓会に呼んでくれたら行くぞ」
消える寸前まで話し続けた。この調子だと、チャイムが鳴って授業時間が終わっても北の語りは止まることがないのだろう、今でも。
蟇蛙の声が聞こえる薄暗い畦道を月に照らされ薄くひきのばされた影を引きずるようにしてとぼとぼと歩く少女の赤い羽織がやけに大きく不釣合いなのは少女の手を引く老人が羽織らせたものだからだろう。不意に老人が咳き込むようにして蹲ると、何か苦しげな声を漏らし、そのままぐるんぐるんと転がっていって大きな鞠となってしまった。黙ってそれを追いかけていった少女は特に驚く風でもなく、老人の顔が地面につかぬよう苦心して鞠を転がすと畦道を逆戻りしていった。
ぼんやりと燈る街路灯がぽつりぽつりと並び始めると、直に賑やかな通りとなって、楽しげに談笑する男女が少女の頭上に笑い声を降りかけるのだが、少女は素知らぬようで鞠を転がし続け、通りの中程にある肉屋に向かった。
肉屋の薄暗い店頭には頭の禿げ上がった男が不景気な顔していて、鞠を転がす少女を黙って迎え入れると、鞠を抱え量りにぶらさげ不景気な顔をさらに顰めてから少女に幾枚かの札片を渡した。
背を縮め俯き加減にして人ごみを通り抜け、銀行の手前にある駅から緑色した路面電車に乗り込んだ少女は、自分は立ったままで、赤い羽織を脱ぎ席に座らせた。大きすぎる羽織だとばかり思われたそれは赤い羽織を羽織った変に薄べったい老婆で、少女に何ごとかぶつぶつと話しかけるのだけれど、少女は何も答えず、次の駅でさっと降りてしまった。取り残された老婆は、皺くちゃになった目と口を大きく開け、叫び声をあげようとするのだが、言葉にならないようだった。
陋宅へようこそ。と迎え入れた少女の様子がすっかり見違えるようになっていたのは、途中、洋髪理容店で髪を梳ってきたからで、波打つ黒髪が美しく、そっと携えていた小さな花束を私に差しだす様子は、外国映画の一場面のようだった。小さな藤色の花を咲かすそれはどこで知ったのか私の誕生花であるヘリオトロープに違いなく、屈みこんで受取ると少女はばら色をした頬を私の耳元によせて、何ごとか囁こうとしたのだけれど、そのか細い息づかいが耳に触れるやいなや、少女は糸が切れたようにぐんにゃりと床に崩れ落ちてしまって、何を私に伝えたかったのか、もう解らない。
私は不具合がないか崩れ落ちた少女を仔細に点検してから、彼女を抱え上げて、陳列棚の空いているところに腰掛けさせてやった。白い頬をうっすらと染め、瞳を閉じ静かに座っているその姿は、生きている少女となんら変わらなかった。