第33期 #30

 人通りの多い道の交わるところに傘屋があったが、どうしたことか土砂降りのその日は店を開けていなかった。傘を差したところで大して役には立たないだろうとは思いつつも、雨の日に傘屋が休むという行為に対して戸塚は一応悪態をついて、軒先で少し雨宿りすることにした。
 外套の表面を手で払ってみたが、もう水を吸ってしまったのかじっとりとした感触があるだけだった。帽子も靴も似たようなもので、後はこのような日に外を歩かなければならない事情を呪うくらいしか抗う術は残されていなかった。
 それでも、と戸塚は自分の来た方を眺めながら、この雨は恵みをもたらしてくれるかもしれないとも考えた。未だ完全に落ち着きを取り戻してはいないようで、あらゆる要素を検討しているというほどには自分を信用できなかったが、見知らぬ家の屋根に放り投げたナイフ、浮浪者にくれてやった手袋、そして他ならぬあの男、何もかもに分け隔てなく打ち付けているはずのこの雨が自分の痕跡を少しでも洗い流してくれればと、降り続けることに期待する気持ちもあるようで、止んでも良し、降っても良し、相反する気持ちを抱えたまま、なかなか歩き出せずにいた。
「やあ、ひどい雨ですな。もっとも、傘屋が雨を悪く言っちゃあいけませんが」
 突然脇から声をかけられて、戸塚は外套の中ですくみ上がった。戸を開ける音まで掻き消されていたのだろう、傘屋から出てきたらしい小柄な老人が、いつの間にか彼に並んで立っていた。
「傘をお求めですか」
「いや、この雨です。傘を差しても……」
「そう思って休んでおったのですが」
「失礼。一息つけましたので、もう行きましょう」
「そうですか。しかしあなた」
「何です」
 老人はどこからともなく傘を差し出して、帽子を深く被った戸塚の顔を覗き込んだ。
「顔色がよくないようだ。なるべく濡れない方がいいでしょう」
「そうですか。ではお代を」
「いや、どうせ売り物にはならない傘ですから」
「なら、遠慮なく頂戴しましょう」
 戸塚の返答に欠伸で応じた老人は、彼に背を向けて戸に手をかけたところで尋ねた。
「今日はどちらまで」
「雨の降らないところまで」
 背を向けたまま答えると、戸塚は傘を差して歩き出した。なるほど言うだけのことはあって、骨の歪んだひどい傘だった。顔を隠してくれるだけましかと割り切って使うことにしたが、雨の音が一層やかましくなったのには閉口した。



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