第33期 #31

彼ノ者、欠落ニツキ

 ある日あたしが映画館でムービーを観ていると、画面上で活躍していた赤ん坊の人形が突然あたしの前に現れた。急ぎ辺りを確認したが、特にパニックに陥る様子はない。どうやらあたしにしか見えていないようだ。
「あたしにあなたの名前をつけさせて」
 人形は首を傾げながらかたかた口を動かす。あたしは小声で「いやよ」と返した。
「どうして? あたし子供だよ? 子供は世界を構築するために大量の名前を用意しないとダメなんだから。言葉の数が足りない分、それを補うような工夫のある名前をつけないと」
 あどけない口調。そして赤ん坊は空中をゆらゆらと動く。映画が見えない。
「じゃあ別に断る必要ないわよ。子供特有の傲慢さで勝手に名づけてしまえばいいじゃない」
 そんな怒らなくったっていいじゃない、どうせ認めてくれないくせに。そう言って人形は声を出して笑う。
 ちょうど映画は盛り上がっているところのようだった。モンスターの叫び声が響き渡る。
「でもさ、不思議よね。馬を草と言い、草を馬と言っている大人がいたとして、この大人が間違っているなんて誰が言える? きちんと共有のコードを認識していなければ、社会という曖昧で不定形なモノに組み込まれることがないから? ばっかみたい。社会なんてなくても生きられるのに」
 人形の言い分に眩暈がする。
「生きていけないわ。生きていけるはずないのよ。夢見すぎているのよあんたは」
 落ち着くよう下唇を舐めて、あたしは人形を睨みつけた。
「そもそも。名付けは所有に繋がりかねないでしょ? あたしあんたなんかに所有されたくないわ」
 その時、地響きのような大きな音がスピーカーから聞こえた。ついで人の叫び声が。人形はそれに煽られるように手を広げ口を何度もかたかた動かした。
「じゃあさ、馬や草が望んでいるかどうか分からなくても、固有名詞でも名詞でも勝手に押し付けるんだ、勝手に所有しちゃうんだ、勝手に世界の全てを道具に見立てていくんだ。キャハッ、傲慢! あたしがするのは嫌なくせに!」
「うるさいなあ、静かにして!」
 あたしが叫ぶと同時に人形はふっと消え、斜め前のおばさんがじろっとこちらを睨む。ああ世の中こんなものかと思い、できる限り音を立ててコーラを飲んだ。



Copyright © 2005 朽木花織 / 編集: 短編