第33期 #32

梅見ごろ

 水道のパッキンが緩んでいるのかポタリポタリと滴が垂れる音が聞こえる。それにあわせるかのように薄暗い部屋の片隅で蹲った老婆が静かに泣いていた。真っ白な頭に喪服のような黒い着物を着て、顔は伏せているのでこちらからはわからない。一体何時からそこにいるのか。記憶は不思議と判然としない。いつもより少し遅くに帰宅し、ありあわせの夕食をすませ、酒を注いだあたりまでは覚えている。夕食後のいつもの一、ニ杯で、すっかり酔ってしまったというのだろうか。ポタリポタリと滴は垂れ続けていたが、いつの間にかすすり泣きは止まっていた。薄がりに目をやると老婆とは別の若い女が、泣きはらして真っ赤にした死んだ魚のような目をしてこちらを見るとはなしに見ていた。その様子にぞっとしてよいはずなのにそうはならず、どこか夢心地で、いやしかし夢を見ているというわけではなく、はっきりそうわかるのが何故だか知れず、ともかくこれは本当のことだ。
 どこかで見た顔だろうかと、目を凝らしてみようとすると、女は顔を伏せてしまって、先ほどとは違う調子で、また泣きはじめた。不意にいつだったのかの週末に、梅を見にでかけた帰り、喪服姿の妊婦を見かけたことを思い出した。日暮れ間近、付き添う人もなく堤防の上を一人歩くその姿は夕映えの所為かやけにくっきりとしていて、大きな腹で、一目でそれとわかるのに葬式で出なければならなかったということは、つまり死んだのはその女の旦那であったということなのだろう。同情というのとは違う名状しがたい気持ちを覚え、梅の香りと共に記憶していた。
 その女なのだろうか。そう思えたのは何故だかわからない。ここから見るに女の腹はもう膨れてはおらず、子どもはもう産まれたのか、それとも流産でもしたのか、泣いているのはあるいはその為なのか。声をかけようとすると、女は先ほどまで私が座っていたはずのソファに項垂れて座っていて、かわりに私が部屋の薄がりにいた。女は膝を抱えるようにして泣き続けている。私は彼女の傍らにとことこと歩み寄ると伏せた彼女の頭を撫ぜて「もう泣かないで」と言った。艶やかな長い髪が持ち上がると、そこにはもう女はおらず、まだ幼い少女が私にしがみついてまた泣いた。私は小さな手で彼女の背を抱え、「大丈夫だよ」と言った。ポタリポタリと滴が垂れる音が聞こえてくる。多分水道のパッキンが緩んでいる所為だろう。



Copyright © 2005 曠野反次郎 / 編集: 短編