第32期 #26
人間の条件を書いておいた紙を無くしてしまった。
「どうしたの?」
声に振り返る。
「ああ」
妻が心配そうな顔をして俺を見ていた。
「ちょっと、な」
「ちょっと?」
「いや、人間の条件をね」
「うん」
「人間の条件を書いておいたのだけど、その紙を何処かに無くしてしまったんだよ」
「もう、馬鹿ねえ」
妻はため息をしてそう言った。
「うん。馬鹿だ」
俺は反省してそう返事した。
「でも人間の条件ってなあに?」
「さあ」
「なんなの?」
「俺も良くは解らない。でも良いじゃないかそんなことは。とにかく一緒に探してくれよ」
「良いけど」
妻はそこら辺をひっくり返し始めた。
ばさばさと書類や世界地図や卓上カレンダーが宙に舞う。
「どんな紙に書いといた?」
「再生紙」
「再生紙かあ。あ」
「どうした」
妻が窓の外の青空を指差している。
「あれ。違うの?」
そこには色の悪い小鳥が空を飛んでいた。その色の悪さは、明らかに再生紙のそれだった。
「しまった」
俺の知らない内に人間の条件は小鳥になって空に飛び立ってしまっていた。
「追いかけよう」
「うん」
俺達は家を飛び出した。
「待て」
「待ってえ」
「待て人間の条件」
「待ってえ人間の条件」
人間の条件は空高く飛んで行く。あんなに空高く飛べるものなのかというくらいに、人間の条件は何処までも、本当の鳥よりもずっと高く空を飛んで行く。
「はあはあ。待て」
「ねえ」
「なんだ」
「それ、使ったら」
「それ?」
「そう。それ」
いつの間にか俺は弓矢を握っていた。
「これか」
「うん」
「でも使ったこと無いな」
「良いから。あなたならきっと初めてでも使いこなせるわ」
妻にそう言われてその気になってしまって、それで俺は弓矢をつがえた。
ぎりりと弓を引き、空を行く小鳥に狙いを定める。
人間の条件に、弓矢のことは書いてあっただろうか。何か一行書いてあった気がする。
そのことを思い出しそうになった瞬間、弓は音を立て、俺の手を離れていった。
そして。
「美味しいね」
「ああ」
矢は狙い通りに命中し、小鳥は地へと落ちていった。
人間の条件は、地へと落ちてしまった。
人間の条件を俺達は焼鳥にして食べた。
「美味しいね」
「ああ、でも」
「でも?」
「もう無くなってしまった」
「そうだね」
妻は手に付いた油を舐めながらそう言った。
「でも美味しかったよ」
見上げた空は何処までも高かった。
「そうだな」
俺はそう返事をして空に背を向け、家路へと着いた。