第32期 #25

春立空

この花をみていると泣きそうになるんだ、と口にだして、男は後悔した。
「泣きそうになるんだ?」
つれの女は背筋を震わせる真似をして言った。
「嬉しくて涙がでるんだよ」
男はまた後悔した。女は泣きまねをして笑った。二人はカフェテラスでハクモクレンをみている。
「葉がないだろ、この花」
「ほんとだ。花が咲いてなかったら、枝みたいね」
「それがさ、春がやってくるとこのシャンデリアみたいな花でいっぱいになるんだよ」
「桜は?」
「この花が散ったあと。つまりハクモクレンが春の花を起こすんだ」

二人は空を見上げた。かんかんかんと眩しかった太陽はいつのまにか姿を消して、ちらちらと雪がふってきた。
「あ、もしかしてなごり雪?」
女は立ち上がって雪を掴もうとした。
「あたしずっと沖縄だったでしょう? 小さいころ、雪はかき氷のミゾレみたいなものだって言われて育ったから憧れたな、北国に」
男は口を開いて雪を食べようとした。「うん、辛党の俺にはちょうどよい」

女は雪が男の顔の上で溶けていく様子をみつめたまま話をつづけた。
「ソテツってあるでしょ、ヤシみたいな木。うちの庭にあってね、春先に花を咲かせるんだけど、ちょっとくすんだ紅色でね。きれいだった。それでソテツみそっていうのをつくるんだ。でも毒があるから知らない人にはつくれない」
「秘伝ってわけか」
「あたしも春が来たら嬉しかったな、それだけで」

二人は黙って庭を眺め、それぞれの春を楽しんだ。男には男の春の記憶があり、女には女の春の思い出があって、それは絶対に秘密、といったわけではなかったが告白しあうには彼らの間にもう少し時間が必要だった。

「じゃあ金沢城公園を案内しよう。兼六園も21世紀美術館もいい。そっちもあとで行こう。でも金沢城公園はね、かつて加賀百万石の城があって、それが燃えちゃったんだよ。そのあとここに大学ができて学生が何万人と巣立っていったんだ。だけどそれもなくなって、今はなんにもない。あそこはいい風が吹く。そこで見える空を一緒にみたいんだ」
「いいね、いこういこう」
「次の旅行は沖縄へ行こう。そしたらまずソテツみその味噌汁を飲みたい」
「フーチバたっぷりいれてあげよう、ああヨモギのことね。それから、それから・・・・・・いっぱいある。きっと疲れるよ。でもまずは金沢城公園へ行かないとね。今日はおなか空いたからおいしいものをたっぷり食べさせてもらわないとなあ」

二人はカフェを出た。


Copyright © 2005 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編