第31期 #9

月下美人

  祖母の下宿屋は、子供の頃から私にとって良い遊び場だった。共働きの両親、兄弟もない私は親が夜遅くに帰ってくる迄、下宿の大学生達と夕食も共にした。彼らは子供だった私を邪険にすることもなく、ゲームをしたり、大阪弁を教えてくれたり、マンガを快く貸してくれた。私は下宿がとても好きだったが、祖母の年と共に縮小し、やがて最後の一人となった。 
 真一さんがここに来たとき私は16歳で、入学早々躓いた数学を熱心に教えてくれた。ともすると無表情で冷たい印象のメガネの奥の細い目と薄い唇は、私が自力で数学の問題を解くと、ふっと細めて優しく微笑む。その笑顔が見たくて私は熱心に数学を勉強した。真一さんはその時20歳。物静かで、鉢植えの月下美人を大事にしている様な人だった。毎年花を見事に咲かせ、祖母も私も短く美しい花の命を愛でる贅沢を真一さんに教わった。実用一辺倒花より団子の祖母でさえ、美しさにうっとりと瞳を潤ませた。細く白い花びらは、真一さんの指のようで、なるほどその繊細さは真一さんの好きな花だと思ったものだ。
 やがて真一さんは卒業と同時に下宿を後にする。
それでも近くのアパートで一人住まいの居を構えると聞いた時、私の胸は躍った。会えなくなるわけではない。これまでと変わらず、数学を教えてもらったり、音も眠る深夜に息を潜めて月下美人を見ることもできるのだ。
ところが真一さんは首を横に振った。
「どうして遊びに行ってはいけないの?」
私は少し、いやかなりわがままに真一さんを困らせた。どんなに言っても聞かない私に
「それではこれをおいていきましょう」と私に月下美人の鉢を託した。
「この花が開くとき、またお会いしましょう」
とその言葉が私の耳に吹き込まれた。優しくかすれた声と温かい唇がそっと耳に触れた。

 月下美人が一年ぶりの重たげな蕾を抱いている。
おそらく咲くだろう。
 大きな紙袋に月下美人を移し、私はそっと鉢をかかえ上げる。知っていながらこの一年一度も通らなかった、アパートへの夜道を行く。心は急くが、蕾が折れてしまっては元も子もない。アパートのドアの前で私は深呼吸する。手がとても冷たく、ドアベルを押す指が細かく震える。ドアがそっと開く。
「月下美人、咲きましたよ、真一さん」
少しやせたあの人は、それでも変わらずに目と唇をすっと細めて微笑んだ。そして月下美人ようなその指で、私の長い髪を一筋掬うと「冷たい髪…」と呟いた。



Copyright © 2005 長月夕子 / 編集: 短編