第29期 #17

黒猫

 地下鉄の改札を抜け、変に長々とした階段を登り、地上に出た途端、ひょいとばかりに目の前を黒猫が横切った。黒猫が不吉だなんてことは迷信もいいところで、黒猫にとっても迷惑な話だろうと思いはするものの、先ほどの黒猫の、その狙いすましたかのようなひょいとした横切り方がどうにも小馬鹿にされた気がして腹が立った。バスに乗ってもまだそんな詰まらないことに拘っていた所為で、危うく乗り過ごしてしまいそうになり、危ない危ない、何事も気の持ちよう一つで、詰まらないことに拘ったために、余計に詰まらない目にあうところだったと反省をして、慌てて降車口にむかいながら、バスを降りた途端にまた黒猫が横切りのではないかとそんなことを思うも、そんなことはなく、やや黄色みがかった弱々しい街灯に照らされたバイク屋とは名ばかりの自転車屋の禿げかかった看板もそのままの、普段通りのかえり道だ。「次、パンクしたらチューブごととっかえなきゃなりませんぜ」自転車屋のオヤジにそう言われたのは、もうどれくらい前のことだったか。自転車にも随分と乗っていない。なにせこの辺りはせせこましい道が入り組んでいる上に、やたらと老人と子どもが多く、呑気に自転車になんぞ乗っていると危なっかしくてしかたがないぐらいで、いつだったかも……。などとまた詰まらないことを考えていたら、いつの間にか道に迷ってしまっていた。いや、そんなはずはない。いくら道が入り組んでいるとはいえ何年も住み慣れ、通いなれたはずの道で迷うなんて、そんなはずはない。ほらほら、あのゆるやかなわずかばかりの坂を登って一段と軒が詰まった路地を抜ければ、家のすぐそばまで出るはずで、なんてことはない、ただ単に一つ二つ角を曲がり間違えただけのそんな詰まらない話だ。路地を抜けてしまえば、ほら、切れかけて瞬く街灯に照らされた古い木造モルタル造りのアパートが見えてきて、普段とはほんの少し違う方向から帰ってきたに過ぎない。道に迷ってしまったなんて変な錯誤をしてしまった所為か、いい加減住み慣れたはずのボロアパートがどこか頼もしく思え、軽やかな気持ちになって階段を登り、部屋の扉を開けた。すると、部屋の中では一台しかないテーブルの上にすっかり夕飯の用意が調えられていて、ぎょっとする私に、まるで見知らぬ髪の長い女が「おかえりなさい。遅かったのね」と言うので、思わず私は「ただいま」と言ってしまったのだ。



Copyright © 2004 曠野反次郎 / 編集: 短編