第27期 #18

水際に立つ

 夢に母が出てきたことがあるかと父に問われた。一度くらいは見たような気がするが、どんな場所でどんな服を着ていたか、何かをしゃべったのか、母は笑っていたのか、忘れた。夢に母が出てきたことは確かにあった。目覚めたあとに泣いたのを覚えているからだ。

 そんな夢でも父はうらやましがり、おれのところに一度も顔を出さないなんて愛がないじゃないかと笑った。目尻には、繰り返すことで笑い顔を崩さないでいられるようしわが刻まれていた。

 父は自分が淹れたコーヒーを縁側で飲んだ。母がいるときからそれは変わらなく続いていた。
「お前も飲むか」
休日の午後、庭に薄日が差していた。今年も柿の実が次第に色を濃くしている。父の背中をなでた風が、耳元を通りすぎて行く。
「母さんがな」
まるで母が台所で夕ご飯の支度をしているように、父は小声で言った。母に聞かれたくない話や機嫌がいいときの昔話、お説教の類。そういったことを口にする時、父は子供のように声をひそめて内緒話をする。照れ臭そうに間を取って。
「別れてくれって言うんだ」
「誰が?」
「母さんだ」
「誰に?」
「決まってるだろう、おれにだよ」
父はいつから自分のことを『父さん』と言わなくなったんだろう。ぼんやりと考えていると、もっとびっくりしろよと怒られた。

 母の倒れたところは、芝がすっかり生えそろっていた。涸れ滝のてっぺんで蛙が喉を振るわせている。日暮れの早まる季節だった。夕飯の下ごしらえをしたあと、父と母は庭の草むしりをした。お互い別々の場所から庭を掘り進むように草を取っていたから、父は倒れた母にしばらく気がつかなかった。目の前の草を次々むしり、あたりが暮れてきた頃、父は母の名を呼んだという。

 あの日以来、滝には水が流れなくなった。水道を引いて作った高さ一メートルほどの滝には水が循環するボタンがある。そのボタンを父が押さなくなったというだけのことだが。
「それで、なんて返事したの」
問いつめるような聞き方になった。
父は笑顔で、どうぞと言った。
コーヒーでも勧めるようにあっさりと。
「……別れたの」
私の驚きをよそに、父はカップを持って立ち上がる。
「くだらないことでケンカしたくなかったしな」
「夢にも出てきてくれないかもね」
そうか、そうかなぁ、そうかもな。つぶやきながら父は突き当たりの壁のボタンを押した。ボタンは赤く灯り、モーターがうなり始めた。地面の底の方から水音が聞こえてきた。



Copyright © 2004 真央りりこ / 編集: 短編