第27期 #17

海辺の病院にて

 周囲には魚の匂いがたちこめていた。
 それが砂浜の中を歩いてここにたどり着くまでの間に身体にしみこんでしまったものなのか、もともとこの病院に充満していたものなのか、私には分からなかった。
 砂粒が混じった髪の中に指先を差し入れ、その指を鼻に近づけてゆこうとし、不意に自分のしぐさが獣じみているように感じてやめた。脂と汗にまみれた手のひらは熱を持ち腫れていた。それはひどく疲れている時に現れる兆候だった。バスに乗るという手もあるがね、本当は歩いて行った方が早いんだよ。病院への道のりを訊ねた私に駅員はそう言ったのだった。だってバスは砂浜の上を走っていけないんだからな、そうだろう? 海沿いにまっすぐ歩いて行きゃいいんだよ。駅員の顎から首筋にかけてを大きな海豚の形をしたかさぶたが覆い、その縁に泡だつ卵色の膿のあたりから、剃り残した太い毛が何本か突き出ていた。
 靴の中に入った小石を取り出すために、廊下の途中で立ち止まった。
 砂粒がびっしりはりついて紙ヤスリのようになった窓ガラスの向こうに蜜の色をした砂浜が見えた。しかしそれを本当に浜と呼んでいいのかとなると自信が持てなかった。ここへ来る途中で海を見たかどうか思い出せなかったからだ。駅を出てから見たもので記憶に残っているのは、砂を除けば、空を次々にかしぎながら走っていく帆の形をした雲だけだった。波の音は聞こえていた。幻聴だったのかもしれない、と私は考えた。そして波の音が幻聴だったのなら、この魚の匂いだって、たぶん幻覚なのだ。
 でも本当にそうだろうか。乗っていた電車は確か「海岸」という言葉が終わりにつく駅を通過したのではなかったか。車窓からも一度も海は見えなかっただろうか。ここに来るまでの道のりをもう一度頭の中でたどろうとしたが、三度目の乗り換えで電車が単線になってからのことはよく覚えていなかった。座席で居眠りをしていたせいだ。私は疲れていた。砂丘を一時間かけて横切ってきたことだけがその理由なのではなかった。
 玄関にも中央ホールにも廊下にも、人の姿はない。私はこれから自力で父がいる病室を探し当てなければならない。そんな病院があるだろうか。そもそもここは本当に病院なのだろうか。ここに入ってくるまでの間に、ここが病院だという確かな証拠を、私は一度でも目にしただろうか。
 土踏まずにくいこんでいたのは、石ではなく、小さなうずまき貝の貝殻だった。


Copyright © 2004 でんでん / 編集: 短編