第26期 #26

どん詰まり

 細い裏路地を縫う様に帰宅する途上で、私はその女と出遭った。
 疲弊して爛れた眼界の片隅に、髪の長い女が佇んでいた。路地のどん詰まりに打ち建てられた何も無い白壁に面し、物言わず唯立っていたのである。
 私は歩みを留めて、その女の背を見詰めた。擦り減った靴底から、鈍く湿ったものが沁みて来る。
 不意に女がこちらに向き直った。両の眼に、夕暮れの蒼が鋭く宿っていた。
 女は何も言わず、摺る様に私との距離を詰めて来た。何か避け難いものが、女の眼の光にはあった。
 裏路地の片隅に置き忘れられた様なアパートの自室へ、私は女を招き入れた。恋慕や情欲の火花は無かった。唯水が上手から下手に流れ行く様に、私が開けた軋む戸を、女は潜った。

 女は口数少なくも、家事の殆どをさも当然の様にこなしていった。
 女の作る飯は独り者の私には格別の物ではあったが、私はどうしてもそれに心を緩めることができずに居た。飯を食む度、尻の下の底深い谷へと落ちて行く様な空恐ろしさがあった。だが、落ちて行きたいのかも知れなかった。そうでなければ私は、女が土間に脱ぎ捨てたヒールを整え直す様な真似はしなかっただろう。
 最初に遭った時の様に、女はよく何も無い中有を見詰めていることがあった。私も又、背後からそれを黙って見遣っていた。そうしていると、眼に見える風景が、女の背だけを残して尽き果てて行く様な気がするのだった。垢汚れた壁も、揺らぐカーテンも、窓外のビル群も、色を失して腐れ落ちて行くのであった。女の背は、私に差し迫った絶望が見せる横顔であるのかも知れない。古された安アパートの一室の、在世の底部に澱の様に残滓する暮らしの中へ、私はとうとう絶望を招き入れてしまったのだと思った。

 夜、肌を合わせる時、女の体の内側に在る何かが私を打つのを感じることがあった。女の青白い皮膚の下を走る何かが、臥している私を責め苛むが如くに小突き続けるのである。
 私は女を更に強く抱き締めた。私は、もっと責め打たれることを望んでいた。際限なく責め打たれるどん詰まりの夜に、私は自らの生がそこから反響するのを耳にしたいのであった。
 すまんすまんと繰り返し、女を抱いた。粘るような汗が、私と女の総身を包んだ。



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