第26期 #19

中秋

むかしむかし太郎という青年が山の村に暮らしておりました。太郎はわがままで根気がなく誰とでも喧嘩をするので、村人から嫌われておりました。

ただ一人、幼なじみの雪子だけが太郎のことを心配しておりました。雪子は太郎が素直なところも持っていることを知っています。どうにかして太郎がいい方に変わってほしい、そのきっかけがほしいと考えておりました。それに、太郎のことがとっても好きだったのです。

満月の夜、雪子は山の頂上へ登りました。

「ねえお月さん、私の話を聞いて下さい」

雪子は月に向かって真顔で語り始めました。月はそれを黙って聞いておりました。もっともっとむかしの人間はよく月に願いを言ったものですが、そのころに月に語る者など滅多にいなかったのです。月は久しぶりに頼られて嬉しく思い、雪子にキスしました。

涙あふれる雪子の顔に笑顔が戻りました。雪子は思いをすべて口にすると楽になって、山をおりました。さて、月の出番です。

月はまず太郎を探しました。部屋の窓を覗くと寝ています。月は太郎にキスしました。太郎はくすぐったくて目を覚ましました。月はずっと先の未来から取り寄せたウォーターマンの万年筆と原稿用紙、それに谷崎潤一郎作「春琴抄」を太郎の部屋へ送りました。

「太郎、あなたのことを心配している人の願いで来ました。あなたにずっと先の世界で使っているペンと紙、本を持ってきました。あなたは毎日これを写しなさい」

月はそう言い終わると雲の間に消えていきました。

太郎は一人ぼっちで暇だったので言われた通りにしました。もともとは素直なのです。

本を写していくと、次第に万年筆が自分の手に馴染んでいくのがわかります。紙に文字を書きつけると心が落ち着きました。それに春琴にどれだけ叩かれても文句を言わず、最後は自分の眼に針を突き刺す佐助に胸が震えました。太郎はそんなに誰かを好きになったことがなかったのです。

太郎が春琴抄を写し終わるころになると、万年筆は太郎の文字の癖をしっかり記憶した太郎だけのペンとなっておりました。

いつのまにか太郎は物語を通じて控えめで忍耐強い人間に成長しておりました。太郎は残っているインクと紙で月にお礼の手紙を、今まで迷惑をかけていた村のみんなに反省の手紙を送りました。それを受け取ったみんなは誘いあって太郎の家へ遊びに行きました。その様子を遠くから見ていた雪子は小さく微笑んで月に向かって投げキッスしました。


Copyright © 2004 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編