第26期 #11

読書する、森に入る

 Aは読書していた。ここにある本は、通り掛かる人から一晩泊めてあげる代わりに譲ってもらっていた。だが滅多に現れないので、一冊の本がそれこそ宝物だった。新しい物が手に入ればすぐにでも手を伸ばすが、手に入らない限りはずっと同じ本ばかりを読んでいる。Aの住む高い鋭角の屋根を持つ一階建ての家にはまだ十数冊しか蔵書がなく、そのどれも筋をすっかり憶えてしまっているのだが、Aにはある一定の期間、一冊の本、一つの世界だけに没頭する時間が重要に思えるのだった。
 今は、男なのか女なのかも明らかにされない人物が、社会からまるで隔絶されている丘で日々淡々と生活しているという小説を読んでいた。その人物を仮にBとして、そのBは今まで夢中だった読書にも少し飽き始めたらしく、ある日すぐ近くに続いている深い緑の森へ行く事にする。
 水面から顔を上げるような気持ちで本を置くと、窓の向こうに夕日が、黄色い水と紅い油が互いにその密度を主張し合うように揺れながら刻々と沈み始めていた。遠くに聳える青い山脈が濃い翳を落としている。日が沈みきるその時まで、山々は焦がされる。子供を産み落とすような苦しみの中で太陽を体の中へ落とし込もうとする。Aは揺ら揺ら撓むこの夕焼けが、一日を終えるための苦行によって流される血液なのだと感じていた。実感出来ない量の苦しい物事達を呑み込み、再び白い光に包まれる始まりへと浄化する作業が、Aの行き届かない夜という場所で、動植物の鳴き声の陰で繰り広げられている。そこで起きているであろう阿鼻叫喚を思うと、Aは、今まさに沈もうとしている太陽とそれを呑み込んでゆく大地とにどれだけ激励の念を与えたか知れない。
 寝る前の一時、Aは再び本を手にした。
 Bは夜森に入り、風花の中を進むと、泉で傷ついた体を癒す太陽を見る。その太陽の余りに悲惨な姿に胸を打たれたBは「もう朝など迎えなくて構わないから、どうかこのまま休んでいてくれ」と懇願する。太陽は頑なに拒むが、Bは諦めない。Bは「せめてあなたがこうしている間、私にあなたの代わりを務めさせてくれないか」と願い出る。Bの心に触れた太陽は、「それでは夜の間だけ」と、Bに空を照らしてもらう事にする。
 Aが栞を挿んで横になると、月明かりが差していた。
 Aは立ち上がると、舞い始めた雪をかぶって、森の中へ入って行った。



Copyright © 2004 三浦 / 編集: 短編