第25期 #20
向こう岸に電車が滑り込んで来た、と思うと、止まったか止まらないかでするする去っていった。ホームに立っている人々の何分の一かが、演出のきいたような動作でその行く先を見つめる。溝を横切る鉄線は残されて、あれを載せて走るのには些か頼りなげな風情で、私を見上げる。それでも彼らはレールとして価値を見出され、コンクリートに固定されながら、地を這い両側へ伸びてゆく。私たちが思うよりもそれは自由に延伸し、切替えの度、思い思いに枝別れしてゆく。しかしてその端っこは、熱に溶けたガラス棒のように、くるりと丸まって終わる。
一方その上を走る、重たいステンレスの箱は、細かいひとつのパーツにまで気を配り組み立てられたように見える。大小の金属片。相当量の布とプラスチック、ガラス(これは、平らで一枚板の)も載っている。人間も乗っている。タンパク質と水分。空気がざらつく程満ちた様々な心――ただそれらはすべて、複雑さを持たないイオンの類いか、タンパク質に帰属されてしまうだろう。三両目の女性の提げる一包みの仏花が、列車が載せるもののうちでは、とくに緻密でひそやかな意思を抱いている。
だんだんぽつんとした、金属フラグメントが複数線の上をそれぞれ行ったり来たりしはじめる。ほぼ同じ間隔を取って、夏の日差しに車両の天辺がきらきらと光る。ラインの端は丸まっている。2本はとっくに1本に見えて、複線の路線さえ1本に見えて、丸まった終端の纏め括られた尾久(おぐ)のあたりの引き込み線は、血管が変形した黒い瘤のようになっている。いくつかの円と放射状の波線が、灰色の粗面を区切る。海から数本入る青い切れ込みも何食わぬ様子で越えていく。あの川の向こうは、容易にも東京ではないのだ。(そこに、市川市というのはある。)
鳥の気持ち、あるいはありんこの気持ち。
海は近いよ。でも、どうすることもできないんだもの。
足下が熱い。日差しを除ける屋根の影から、足首だけが覗いてしまっている。ソールの薄いサンダルを履いているので、黄色い点字ブロックのぼちぼちが足の裏に伝わり心地よい。お茶の水を眺めていた、何分の一かの乗客は、そちらを見るのをやめて、方々に意識を移していた。対岸の人々は、手を伸ばせば数人毟り取れそうな程度の大きさと密度にて、そこに群生している。さわさわと騒めいて、夏の中心に立つ私を思う。(7月末:秋葉原駅のホームにて、午後2時)