第248期 #7
三月の海水浴場は海風と波の音で心地よかった。そっと足を波に洗わせるとしぶきが戯れてくる。人懐っこいようなくすぐったさで思わず笑みがこぼれるが、何か変だな、と足元を見るとしぶきははっきりとまんまるの形をとってころころと私の足の甲を滑っていった。くらげ? と一瞬足指をきゅっと丸めるがそれはビー玉か猫の目のような透明の球形だった。上空を滑る雲を見て、天気予報ではそろそろ風が強くなるころだと思い出した。案の定まもなく風が吹き、波が高くなった。解像度の低い動画を見ているような荒い波の粒が見えた。昔行ったどこかの駅前にあった、冨嶽三十六景を小さな円いタイルで描いた壁面を思い出していた。だっぱんと、もったいぶった、のたうつ感じで波が足もとの砂浜を叩きつけると、波の玉がそこらに飛び跳ねた。一粒は私の頬まで跳んできた。とっさに出た手ではたくと波玉は二つ三つと別れた。空には血の色をした太陽が浮かんでいた。日が傾くにつれその赤さは黒味も帯びてきて、海の向こうにじっくりと漬けこまれていった。そして夜が来た。私は宿泊する海沿いの旅館に戻って浴衣に着替え大浴場に向かった。露天風呂から見る海は暗く、赤黒い太陽が海の中を駆け巡るのが見えた。そこから逃げるように海の玉たちは荒れ狂い、その音は地響きのように鳴った。「海鳴りが今日はひどいですね」と部屋に戻る廊下ですれ違う女将は困ったような笑顔を見せた。部屋に戻っても、音は鳴りやまず、時折海の中で赤く輝く太陽を窓から見ながら焼酎のお湯割りを飲んでいた。
翌朝、血の気を失った青白い太陽の光で目が覚めると私は海を見た。おびただしい数の海の玉は太陽の血で赤く染まり、昨日のような弾力を失い干からびていた。浴衣のまま朝食会場に向かい、ご飯に味噌汁、ソーセージ、ハッシュドポテト、今朝どれの卵を使った目玉焼きやサラダなどを盆に載せて、最後に良く漬かった海干しを一つご飯にのせた。「朝どれですんで、昨日はたくさん鳴ったものですから……」女将が私の後ろの宿泊客に説明するのを聞きながら、赤い海干しを口に放り込んだ。歯を立てると種の部分がぷちっと破けて中から海があふれた。口や鼻、目などから海があふれ、私は裸足で海へと走りだす。海干しに足を取られながら、脱ぐのももどかしい浴衣はウロコやヒレとなって私に張り付き、そのまま私は一匹のトビウオとなり赤い海の先へ飛び立った。