第242期 #7
妻の寝息だけが聞こえた。隣からだ。半身を起こし目覚めた理由を考えたが、漠然とした不安が身体を蝕んでいくようで堪らず、喉が渇いた、ということにした。
初めて盗みを働く空き巣のような慎重さでベッドを抜け出した。私の意思ではないが、目が覚めたことを後悔していた。仕事に摩耗した心身を癒すものはほとんど睡眠だけだった。惚れ込んだ妻の寝顔を見れば疲れも吹き飛ぶ、というのも、長期にわたれば流石に気休めでしかない。何時間眠れたのだろう。あと何時間眠れるのだろう。
忍び足で居間に向かった。廊下は仄かに明るく、胃のあたりがズシリと重くなる。寝起きの逆説的な浮遊感だけが私を守っていた。本当にふわふわと浮き上がり、そのままどこかへ飛び去ってしまえれば良いのに。
ドアを開けると海だった。海原のように秋草が一面を覆っていた。揮発性の枯葉の匂いが鼻を通り抜けていく。私は揺れるススキのような穂の間に分け入る。そこら中から虫の鳴き声が立ち昇っていた。繊細な無数の声が周囲に満ち満ちている。命を繋ぐ切実な合唱の波が私を呑み込んでいる。
幻覚から我に返るのは一瞬だった。立っていたのは確かに見慣れたリビングだった。しかし虫の音はなおも世界を支配していた。私はベランダに続くガラス戸が開いていることに気がついた。
サンダルを履きベランダに出て、さんざめく虫の音を浴びた。夜明け前だ。眼下の通勤路を新聞配達のカブが走っていく。その向こうに空き地があり、そのまま堤防、河原へと続いていく。雑草が生い茂る地帯。おそらく声の主たちはあのあたりにいる。
空気が澄んでいるせいもあるのだろうが、音の大きさに驚いた。少なくとも、故郷でこんなに鳴いていた記憶はない。よく聞けば、鳴き声は一種類ではなかった。口笛のような音もあれば、切れかけの蛍光灯や理科で使う豆電球の光に喩えた方が相応しい、儚げな音もあった。昔習った童謡を思い出し、私は口ずさんだ。
こうやって何もせずぼんやりと外を眺めたのは、ずいぶん久しぶりのことだ。
誰もいないのに、ほどなく自分の歌声が恥ずかしくなった。空白地帯のような時間に、頭には妻の顔が浮かんだ。
戸を閉めて寝室に戻った。変わらず寝息を立てている妻の顔を覗く。何も知らない無防備な寝顔に、頬が勝手に緩んだ。まだ幾ばくかは寝られるだろう。私も布団に入って目を閉じる。残響か、妻の寝息に混じり、微かに虫の音が聞こえた。