第242期 #3

記憶の向こう側

 かれとは中学校で出会った。親しくはなかった。言葉を交わしたのも数えるほど。
 けれども、かれの印象は強い。
 何度も隣の席になった。席はくじ引きだったが、クラス内政治に疎かった自分が隣にされていたことは、友人ができた三年生になってから知った。壁際のいちばん後ろがかれ。その隣がわたし。
 かれはよく教室を出て行く。授業中でも上の学年の人たちと廊下で騒いでいた。かれのまとう煙草の匂いは自分の席まで漂う。校舎の窓が夜のうちに割られていた当時、かれは「不良」だった。
 授業中にかれが席にいるときは睡眠中。あるいは、彫刻刀で机の上を彫っていた。教師に注意されても知らんぷりで、かれは机上を彫るのに忙しかった。
 尋ねることはしなかったが、何しろ隣の席だ。何を彫っているのかずっと気になっていた。実際、かれのいない隙に何度かその机の上を見た。
 誰かわからない女の子の名前。そして「LOVE」という文字と歪なハートマーク。やがてその恋文には彫刻刀で何度も線が引かれ、かれの恋心を削り取り消し去った。
 それが本当にかれの恋心を示していたかは知らない。けれども、掃除後の空っぽの教室で、その机の上に目をやり何気なく触れたのを、なぜだか教室に戻ってきたかれに目撃された。
 かれは目を見開いてわたしを見た。そして、わたしが触れている机の上に目をやり、幼げな顔で笑った。
 「おれら今から遊びに行くけど、あんたも来る?」
 わたしは迷うことなく断った。「おれら」って誰とか、どこへ行くかとか、尋ねることすらしなかった。
 かれは、ばいばい、と笑って手を振り、わたしに背を向けた。
 その後も何度か隣の席になり、時折声をかけられた。かれはいつも笑っていた。
 卒業式の日、親しい友人のいなかったわたしは、ひとり校門へと足を向けた。
 そのとき、わたしの名前を呼ぶ声が後ろから聞こえてきた。
 振り返ると、かれがいつもの笑顔で立っていた。
 「おれら今から遊びに行くけど、あんたも来る?」
 わたしは迷うことなく断った。
 かれは、ばいばい、と笑顔で手を振り、わたしを見送った。
 翌日、新聞でかれの死亡記事を見た。ノーヘルで先輩の原付の後部座席に乗り、事故に遭った。
 今でも思い出すことがある。もしもあのとき、「行く」と返事していれば。
 かれの笑顔は今でも鮮明だ。わたしの名前を呼ぶ声も。
 (おれら今遊んでるけど、あんたも来る?)
 そして、わたしは。



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