第240期 #9
祖母は朝や夕方の決まった時間、祭壇の前にひざまづき、静かにお祈りをしていた。
祭壇の中央には小さな何かの像が置かれていて、その右側には花を差した花瓶が、左側には古くて分厚い本が置かれていた。
幼い頃の私は、なぜか、祭壇に置かれたその古い本に興味があって、初めてその本を開いたとき、文字がびっしり書かれていることに圧倒されて、思わず閉じてしまったことを今でも覚えている。
「そこに書いてあるのは、ただの物語なのよ」
祖母は幼い私の肩に、優しく手を置きながらそう言った。
「ものがたりって、なあに」
「物語はね、誰かが、別の誰かに出会って、いろんなことが起きることだと思うわ」
幼い私には、物語や、なぜ文字が沢山書かれた本が存在するのかよく分からなかった。
「じつはお婆ちゃんも、物語や本が何か、よく分かっていないの」
祖母は、私が中学二年生のときに亡くなった。
とても質素な人だったので、持ち物もほとんどなく、祭壇の上に置かれたものだけが遺品になってしまった。
祭壇の中央に置かれていた像は、何十年も昔に流行ったアニメの女性主人公のフィギュアで、右側に置かれていた花瓶は百円ショップで購入したものらしかった。
そして、祭壇の左側に置かれていた古い本は、『ドン・キホーテ』というスペインの小説で、数年後によく調べてみると、大正時代に日本語訳された初版本の上巻だったことが分かった。
当時、他の親族は祖母の遺品に全く興味がなかったので、中学二年生だった私が全部引き取ることになり、祖母の祭壇が、私の部屋の中に移動しただけだった。
「今、カルト宗教がすごく話題になっているけど、お婆ちゃんもそうだったの?」
祖母のお通夜に集まった親族や家族の前で、私は思い切ってそう質問をした。
「ああ、お婆ちゃんはね、そういうのじゃなくて趣味でやっていただけなのよ」
祖母の娘にあたる叔母さんが、煙草を吹かしながらそう言った。
「お婆ちゃんは、自分の好きなものに祈りを捧げたかっただけで、周りの家族は理解できなかったけど、あんただけは興味を持ってくれて、お婆ちゃんも嬉しかったんじゃない?」
あと一つだけ、私には祖母の記憶がある。
日曜日に、祖母のラジカセからよく聞こえてきた音楽だ。
「君は君、私わた菓子、リズム重なり合う、二人のランデブー、ワープして、ここどこ、そこどこ?」
今思い出すと、あれはラップと呼ばれる音楽だったのだろう。