第24期 #25

恋人

 その少年がオデュッセウスという名であるのを、純は初めて知った。
 街の大通りの欅並木に囲まれて、彼は一人で立っている。右手に細い小枝の鞭を提げ、頭に月桂冠を戴き、正面を向いて立っている。
 街のあちこちに置かれた彫刻の中で、純はこのすなおな立像がいちばん好きだった。他の像はどれもからだを不自然に捻ったり絡ませたりして、変なポーズを取っているのがまず気に入らなかったのだが、最大の理由は、それらがみな豊満な女性の肉体を持っていたからだ。
 市民図書館への往きかえり、通りの両側の舗道から、無心な様子でどこか遠くを眺めている彼の姿を木の間がくれに認めるたび、純は甘やかな快感を覚えるのであった。撫で肩にすらりと伸びた四肢、薄くしなやかな肉づき、未だ発達しきっていないセクス……それらは少年の肌の温もりと、爽やかな若葉の息吹を、いつも苦しいまでに感じさせた。
 それほど気に入っているのに、また通りの真ん中はちょっとした遊歩道になっていて、簡単に入れるにもかかわらず、正面から会いに来たのは、今日が初めてである。
 純は台座の前に佇みながら、とうとう来た、と呟いた。すぐ足許から見上げると、青銅の肌は案外粗い。前髪の下の眼差しは虚ろで、どこか憂わしげにも見える。
 とつぜん、吐き気と悪寒が襲ってきて、純はかたわらのベンチに座り込んだ。薬の副作用だ。
 男性にはきわめて珍しい乳癌と診断されたのは、二ヶ月ほど前である。若いだけに悪性の癌は、しみ込むようにリンパ節にまで転移し、手術で取りきるのは不可能だった。今この瞬間も、抗癌剤は純の身体の中で、健康な細胞と凶悪に変異した細胞に、見さかいなく攻撃を加えているにちがいない。
──もし「奴ら」の方が強かったら……。
 純は目の前に自分の右の掌を広げて、じっと眺めた。異性に興味を持ち得ない彼は、三十歳をすぎた今まで一度も、生身の人間と愛し合ったことはなかった。銅像のように硬く純潔なまま、この肉体は滅びくずれていく……。
 気分が治まったので、そろそろと立ち上がった。写真を撮って、病院へ帰るつもりだったが、気が変わった。
──また、きっとここへ、会いに来るさ。
 少年の姿を網膜に焼きつけてから、純は帰路についた。頭の上の梢で、小鳥がするどく鳴き交わした。



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