第24期 #18

千夜一夜

 天女と雖も、斯くは麗々しうあるまい。
 ひとびとは誰れ彼れとなく、千夜を讃えた。美しい女であった。一夜はこの姉を深く愛して居た。血の繋がりも歳の隔たりも越え、ただ愛して居た。千夜は在京の海軍武官に降嫁した。洋拵えの軍刀を佩いた男の隣で、姉は恥じらいを面にして俯いた。一夜はそれを正視せられなかった。
「一夜さん、御機嫌よう」
 家を出る日、姉は、そう言って一夜の頭を撫でて呉れた。涼やかなる声音が、何時までも何時までも一夜の耳をくすぐりつづけた。やがて義兄は「捷一号作戦」へと出征し、南洋に没した。ふたりの間にはまだ子も無かった。姉は気丈に万歳に和した。一夜も和した。父や母や叔父や叔母や往来の者も、みな和した。最期の閨で、姉はどのように身悶え、どのような声で達したのか。一夜は密かに夢想したものだった。
 神州は、米軍の焼夷弾に、繰り返し繰り返し嬲られて居た。

 戦争が終わると、姉は色街に消えた。一夜はその影を追うようにして、侠徒になった。女を売り、薬を売り、米を売り、土地を売り、名を売った。一夜はやがて辣腕の事業家に成り上がった。神州も復興を見た。
 昭和という時代が、終わった。
「一夜さん、御機嫌よう」
 夢枕に立ったのは、紛うかたなき、あの姉であった。当時のままの匂いたつような麗姿。
「御息災でいらっしゃいましたか」
 姉はふっと笑みを浮かべて、俯いた。昔ながらの仕草に、一夜の胸は高鳴り、震えた。
「貴女のことを想わぬ日は、ありませんでした」
 始めから夢だと判って居た。ゆえに一夜は、心の奥底に飼っていた情念を、抑えることが出来なかった。艶やかなるその唇を吸い、白き柔肌を指で辿り、共衿から零れんばかりの双丘を掌に転がした。千夜は乱れた夜着を脱ぎ棄て、その裸身を圧しつけるようにして、一夜を包んだ。馥郁たる女の香が、鼻腔に溢れた。
 夢でも良かった。愛した姉に己を埋め、愉悦に身を委ねるは、何をも越えた至楽であった。交歓は、永遠とも思えるほどの間、続いた。
 目が醒めると、うら若い愛人が隣で眠りを貪って居た。一夜は己の老いさらばえたからだを見下ろし、乾いた肌を手で撫でた。陰茎は、せり出した腹の下に隠れて居た。
 露台に出ると、漆黒の空が在った。そこに、月が在った。冴え冴えとした、月。
 朝露のごとき千夜一夜の夢芥が、色褪せた銀貨のように、夜に浮かんで居る。
 たった、独りで。


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