第235期 #8
「兄ちゃん、火ぃ貸してくれよ」
喫煙室で声をかけられた。中肉中背、くたびれたグレーのスーツに臙脂のネクタイ。顔に靄がかかっててよく見えない。
胸ポケットからライターを取り、どうぞと出しても相手は受け取らない。仕方なく擦って火をつけると、無骨な手の向こう、眩しそうに細められる目が見えた。すまんねえと声が言う。ふーっと吐き出された煙で室内が曇る。換気扇仕事しろ。
俺が黒い機器を取り出すと、声の主は笑った。
「電子かよ。なんでライター持ってんだ」
「両方吸うんですけど、ちょうど切らしてて」
「何でもかんでも電子にしやがって。そのうち人間も電子になっちまうぞ」
曖昧に笑って、当の電子を咥えて軽く吸う。手順と成分が似ていれば割と満足感が得られる。騙されてるような気もするが、煙草に限った話じゃない。
吸いながら室内を眺める。ヤニが染みたセピア色の壁。フィルタが汚れて副流煙を吐くエアコン。灰のこびりついた灰皿。
と、ひしゃげた紙箱が目の前に差し出された。中には茶味を帯びた煙草が五本。
「やるよ、火のお礼だ。吸ってみな」
怪しさよりも好奇心が先に立った。一本咥えて火をつける。
俺は南の海にいた。
湿った風、潮の匂い、白い砂浜。見渡す限りのエメラルドグリーン、泡立ち寄せては返す波。
びっくりして口を離した。かすかな潮気が舌の上に残っている。
「うまいだろ」
「何すか、これ」
「俺が巻いた。危ないもんじゃねえよ。ニコチンすら入ってねえ。気に入らなきゃ捨ててくれていい……つっても、そんなこたあしねえよな。頼まれたんだろ?」
「……俺が初めてじゃないんすね」
「記憶を持たねえとでも思ったか? ま、そりゃそうか。あいつらにとっちゃ、俺なんざ電子部品の製造機にすぎねえ」
窓もドアもない喫煙室で、もう一度煙草を咥える。波の音のなか、俺とおっさんは並んで海を眺めた。
「ここ、出ませんか」
相手は諦めたように笑って、首を振った。
「そいつは俺の最高傑作なんだ。誰かに吸ってもらえれば、それでいい」
「物を出せ」
ログアウトした直後の路地裏で、黒ずくめの取り立て屋が待っていた。
「嫌だね」
吐き捨てて相手の顔面に発砲。反撃を避けて逃げる。背後から銃声。
鼻の奥で潮の匂いが揺れる。
これまでも果たさなかった依頼はあったが、今回は高くつきそうだ。騙されてるような気もする。ただ少なくとも、いま俺を満たし、動かしてる感覚は電子じゃない。