第223期 #7
会社と家が近いから昼休みには一度帰宅するが疲れはとれない。息子よ、帰った私を見るなり足にまとわりつくのは良い。散歩に行きたいのだな、連れ出すのも構わない。ただ腹に巻いたヒップシートの上に立つのはやめてくれ。
「はーいおちたらイタイイタイだから、おすわりよー」
まだ言葉を持たない息子に語りかけながら前向きに座らせる。大人しく従ったと見せかけ、息子は大袈裟に振り向くと生えかけの歯を露わに「へへぇ」と笑った。
この笑顔と妻の休息のため、というのは建前かもしれない。私自身、息子の相手をしていれば疲れるのに元気が出るのだ。今日こそは昼寝を!と思ったところでこの引力には勝てない。麻薬的だ。
近くの川沿いに出た。小さな堤防から見下ろした川面は春の光で煌めいている。何度も来ているのに、息子は好奇心を剥き出して四方八方に身を乗り出す。脳の急速な発達によって何度でも新しい刺激を得るのだろう。それを繰り返して大人になったのだ、たぶん私も。
何が見えるんだい。お父さんにとっては手垢のついた景色だけれど、君にはどんな世界に映るんだい。
息子は胴を押さえる私の左腕を掴みながら物言いたげに首を振った。上着の袖が引っ張られて安物の腕時計が見えた。
もう戻らなければ、と思った時、「あっ」と声をあげ息子が川の方に手を伸ばした。指差しの形をとれない指の向こうに小鳥がいた。川面へ張り出した灌木の枝にとまるカワセミだった。
流線型の青い背中に尖った嘴。遠目でもその姿がカワセミだと分かったのは、テレビでよく見るからだった。正確には青よりもっと鮮やかだ。せせらぎが凝集して生まれた命であるかのように、陽光を浴びて体は宝石に似た色彩を放っている。
佇んでいたのはほんの束の間で、私たちの方を一瞥するとカワセミは枝を飛び出した。青めく光の塊が川面を矢のように横切り、まっすぐそのままどこかへ消えていった。
私は呼吸を忘れていた。息子にあれはカワセミだと教えなければ、と思う一方で、残像を前にすぐには体が動かなかった。重心が前に傾くのを感じて我に返り、息子を抱く腕を引きながらしゃがむ。急接近した地面に手を伸ばして小さき者は草花をサラサラと撫でた。
少し視線を上げた視界いっぱいに色とりどりの花たちが溢れてきた。新しい春だ。私は腕時計を右手で隠し、もう一度腕に力を込めた。その中で、もうすぐ一歳になる息子はまた「へへぇ」と笑った。