第223期 #4

 遠目には、小高い丘の上で眼下に広がる海の景色を眺めて佇んでいる、物静かなヒトがひとり立っているように見える。実際、かれはこの丘の上に佇み、深い樹々の香りのなか、近寄ってくる鳥や虫たちと戯れ、長い時間を過ごしていたことがある。気が遠くなるぐらいの、長い、長い、時間を。
 ヒトの立ち姿にしか見えないそれに近づくのは、そう難しくはない。丘の上に通じる道は整備されており、途中の駐車場からそこまでは歩いて数分だ。小道は地域の人たちの清掃の手が丁寧に入っており、歩くのに困難はない。傾斜が急な箇所は手すり付きの低い階段が設えられ、息の弾む間もなく頂上に到着する。実際に登ってみると驚くほどその道行きは容易だ。
 けれども、実際に丘まで登る人は少ない。それがこの町の住人であれば、ほぼない。私たちが丘への道を尋ねると、町の人たちは怪訝な表情で案内してくれた。
 頂上から少し海のほうへ下った開けた場所に、かれは立っている。あるいは、立っていた。遠目には微動だにせず見えていたその姿が、近づくにつれ、微妙に揺らいでいることに気づく。ヒトが震える動きではない。ヒトの動きで可能な揺らぎではない。その動きは、ありえないほど細かく、ありえないほど小さい。
 やがて、見えてくる。それが小さく小さく動く無数の部分の塊であることが。
 それは、ヒトの姿をしている無数の虫の塊である。羽のあるものは小さくそれを震わせ、蠕動運動する虫たちがその合間を蠢いている。虫たちは小さくそこから飛び立ったり、そこから落ちたりしているが、すぐにその群集へと戻り、塊の一部となる。
 その中央には、存命中はヒトだったかれがいる。いるはずだ。いつ息をひきとったのか、いつまでヒトの姿を維持していたのかはわからない。丘に佇むかれの姿がありえないほど長いあいだ動かないのに気づいたのは、地域の清掃担当者だった。そして、すでにその姿が虫たちの集いでしかないことが目視され、報告された。
 今ではその姿はこの町のシンボルである。町の人たちは丁寧に丘を守り、観光客を迎え入れる。
 私たちの目の前に在るその塊の周辺には、虫の屍が積み上がっている。おそらくその内部も虫たちの墓場となっているだろう。
 私たちはその姿を拝み、撮影した。どぎついコピーをつけてセンセーショナルに扱う予定だった。
 けれども、その場はおそろしく穏やかだった。優しく私たちを迎え入れ、静かだった。



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