第221期 #5
遊び疲れて眠った娘を抱えて電車に乗ると、異臭が鼻をついた。何度か嗅いだことのある、小便をもらしたようなすえた臭い。使い古して黄ばんだ紙袋が四つ、衣類などをいれているのかどれも膨れている。ボサボサの白髪頭をしたホームレスの老婆だった。電車は満員ではないが、座席は埋まり立ち客が多く、老婆もその一人だった。つり革の下で、ガニ股で足を踏ん張り、バランスを取っている。異臭を放つ老婆は、自分の眼には、車内の異物に見えるのだが、周りの乗客は誰一人関心を寄せない。臭いの発信源に一瞥すらない。駅にとまり、乗客が入れ替わっても同じ。臭いに気づき一瞥したのは、四人組の若い高校生くらいの男の子が二人、同時に振り返り、眼で合図だけしたが、声には出さなかった。あとは、近い席にすわっていた中年の男が一人、ちらりと目を向けたのは分かった。それだけ。誰一人顔をしかめることもなく、そばに座る若者が老婆に席を譲ることもなかった。老婆は紙袋を持ち替えた拍子に、座席の背にもたれ、こちらを向いた。
代々木公園で炊き出しがあるらしい。見舞金が出るとか出ないとか。前歯が一本しか残っていないジジイに身体をまさぐらせてやった報酬のタバコを吸いながら聞いた話だ。見舞金が出るなら、少し贅沢ができる。今日の飯。盗まれないよう持ってきた生活用品が、指に食いこんで重い。ふと父親に抱かれた幼い女の子が目に映る。幼子の電車の暖房に赤くした頬は、細やかな白い肌に映えて、健やかだった。父の肩に顔を埋め、切り揃えられたオカッパが光沢をたたえている。ほんの一瞬だった。その日暮しで、過去を思い返すこともなくなった、ホームレスとなった原因すら覚えていない老婆は、遠い昔、大きい父の背に嗅いだ磯の香りを思い出した。しかし、すぐに瞳の焦点は幼子から外れ、ぼやけた。香りは霧散した。郷愁は、炊き出しと見舞金に間に合わないのではいかという焦りに上書きされた。老婆の幼子への無関心は、正しく他の乗客と同じであった。
娘がぐずりはじめたため、父親は自宅最寄りから一つ手前の駅で降りた。誰かから非難されたわけでもないのだが、母親不在の不安と静かな車両に響く娘の泣き声にいたたまれなくなったのだ。プラットホームで娘をあやしながら、父は電車では潜めていたため息を小さくついた。
世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。