第219期 #4
しんとした水面は凍っているかのような静けさをたたえて微動だにしなかった。これがすべて淡水だなんて信じられないな。それが初めて琵琶湖を目の前にした感想だった。湖の西側を走る車窓からは海のように広がった湖面が見えていた。そこには海にはない透明感が漂い、ある種の色気のようなものがあった。
祐司は揺れる新快速で北に向かっていた。用事は顧客先への訪問だったが、多忙な仕事で張り詰めた神経に束の間の休息を与えるささやかな旅のような気がしていた。
先日、祐司は友人に連れられて演劇を見に行った。演劇なんて無駄なものだ。面倒なだけの誘いだと思ったが、たまの休日に手持ち無沙汰でいるのも飽き飽きしていたので、暇つぶしにちょうどいいからと自分を説得し友人の誘いに乗った。
観劇は祐司の予想に反したものだった。内容はシリアスなものだったが、社会を風刺したようなブラックジョークも劇中に織り込まれていて好みだった。舞台装置も凝っていて、工場見学でも見ているかのように整理されたシステマティックな美しい動線を見ることができた。久々に何にも捕らわれずに笑い、感動し、初めは悪態を突いていたものの、いい時間だったと友人には感謝をした。
舞台から聞こえた台詞がもう一度思い起こされた。
「替えが利かないのは時間だけ。あとは時間を投入し正しく努力すれば実現できることばっかり。」
こんなに無防備な時間だからこそこんなにも胸にささるのだろう。時間。俺は何にどれだけの時間を使ってきただろうか。これまでは仕事ばかりやってきた。確かに成果が出ればやりがいもあったし楽しかったが、あとには何も残っちゃいない。無我夢中に毎日をこなしてきただけだ。趣味に興じるなんて自分には向いていないと思っていた。家庭を作ることだって、選択肢としてあってもよかったのかもしれない。祐司はこれまで過ごしてきた瞬き程の時間とこれから過ごすであろう限られた時間に目を向けた。俺はもっと多様な時間を過ごしてもいいのかもしれない。
そう思ったところで目的の駅についた。今日は仕事だ。一気に現実に引き戻されて頭がクラクラする。忘れ物がないかどうか今一度確認し、顧客先に向かった。
帰り道は便も残り少ない鈍行だ。暗くなった車窓からは真っ暗な景色しか見えない。祐司はスマホを取り出してコメディーのチケットを一枚買った。
自分らしくあれる空間も努力次第でできるだろうか。次は腹を抱えて笑いたい。