第218期 #2

すき

 宇宙はシンプルだから好きだ。大きいから好きだ。終わらないから好きだ。始まらないから好きだ。だから僕がたとえ無に帰したとして、それでいい。宇宙に限界がないから、僕はそれに合わせるように自分をできるだけ引き延ばして、そうやって毎日眠りについていた。でも。五感も、想像も、届かないその向こうに大きな壁があるということには前々から気付いていた。銀河のにおいや、惑星の手触りを超えて、ただひたすら自分の想像をとがらせて行くと、五感が一つになっていく。嗅覚と味覚はすぐに区別がつかなくなって、そこにぼやけた触覚が乗っかる。突き進むとその旋律を聴覚でも感じるようになって、最後は視覚の速さで僕は押されて光になる。そうやって宇宙の果てを想像の光で突き進む僕に立ちはだかる柔らかい壁、それが彼女の唇で、今僕は光になってその壁に口づけをする、僕の光の先っぽで。
 薄情そうな青い傘の下、カラスが濡れるのを見ていた彼女の薄い唇。白い顔にごく自然に膨らんだその唇。僕の宇宙のその先。僕の光が届かないその先にあるその唇。僕の宇宙に立ちはだかる壁。桃の薄皮のような唇を中から押す弾力と体温、に、くちづける。いのち。彼女の宇宙。束ねられていたのにあっけなくばらばらになる五感と、アンバランスなそのレーダーチャート。視覚4触覚10嗅覚8味覚6聴覚3。彼女の唇から形作られる僕の実体。彼女の唇の動きによってかろうじて人間の形をとどめている僕は泥人形だ。
 ああ、僕は今、本当の意味で無に帰すということがどういうことか知っている。有を知ってしまったから僕は本当に無になることの恐ろしさを知っている。彼女は僕の女媧だ。僕は想像する。彼女の唇を、腕を、手を、指を。その手で泥の僕を捏ねてくれ、僕をもっと高みに導いてくれ。ああだめだ。僕の宇宙は彼女の宇宙に完全に包囲されている。意識の矢はことごとく彼女の壁にはじき返され、だからもっともっとその向こうへ行きたい。

 どちらからともなく唇を離して、でも僕はその少しグロスの剥がれた唇から目が離せない。その唇が糸で引かれるように弧を描き、切れ目から白い歯が覗き、唇がすぼんで、また口角が弧を描いて。
 僕はその壁の柔らかさと、その奥の命の温度を知っている。生きている。生かされている。生きている。



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