第214期 #12

そうして書き終えた私も上を仰いで同じく叫ぶ

 私はその書展にふらりと入った。
 山奥の温泉街で待ち合わせをしていたが、早く来すぎて時間が余り、そこらを歩き回っていたら小さな美術館を見つけたのだ。
 名前だけはかろうじて知っている書家の個展が開かれている。昼食代のちょうど三倍の入場料を払うと、さらに小さな別棟に案内された。大広間の四方の壁に二十点くらいの作品が掛けられており、私以外は誰もいなかった。
 楷書と行書の区別もできない私には、展示された書の大半が読めない。だから抽象画を見るように。あるいは高等数学の式を見るように。一点一点首をかしげつつもわずかながら理解できているような顔をして眺め歩いていた。
 だが、最後に掛けられたひときわ大きな書の前で足が止まった。かろうじて、月という字だけは読めたが、それ以外はそもそも何文字あるのかさえわからない。
 しかし目を離せないなにかがあった。まるで闇夜に突然現れた本物の月のように、人の視線を捉える力があった。
 書の前に置かれていた椅子に座り、飽きずに何分何十分と見つめ続ける。ふと気が付くと、首から学芸員の身分証を下げた男が近くに立っていた。
「これは晩年の作です。あまり評価はされませんでしたが、彼自身は気に入っていたようです」
 なにか感想か質問を返さなくてはと迷った挙句に、どうでもいい言葉が口をついた。
「これほどの作品を、筆をささっと走らせるだけで書いてしまうのはすごいですね」
 その言葉に、学芸員はちょっと待てという身振りをして奥へと引っ込んでいった。そしてすぐに大判の本を持って戻ってくる。この書家の作品集のようだ。
 学芸員はある頁を開いて見せてくれた。そこには見開きの写真があった。目の前にある書とそっくりだけどどこか違う書が、何百枚と書かれては和室に散らかされている写真だった。
「彼は一つの書を仕上げる前に何度も試し書きをしています。字配りや筆の運びを少しづつ変えて、どんな小品でも欠かさず。この書は特に多かったようですが」
 私は本を受け取り、その写真と目の前の作品を何度も見比べた。
 この試し書きがあってこそ、この作品がある。しかし。
 学芸員がいつのまにか姿を消したのに気づくと、私はとても我慢できず本を閉じ、書に向かってひざまずいて祈った。



 私を書いている方よ。お願いします。私は試し書きではありませんように。
 意味があるのはわかります。でも試し書きだと言われるのは本当に怖いのです。



Copyright © 2020 えぬじぃ / 編集: 短編